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平成野球史を彩ったブルーウェーブの名将、仰木彬が見せてくれた「最後のマジック」

阿佐智ベースボールジャーナリスト
平成最後の試合、オリックスは「仰木彬デー」と銘打って復刻試合を行った

 新年号まであと2日となった29日(昭和の日)。プロ野球パ・リーグは平成最後の試合を迎えた。オリックス・バファローズは、この日、「平成最後のマジック」と銘打ち、この日が生誕日でもあるブルーウェーブ黄金時代にチームを率いた故・仰木彬監督の背番号72をチーム全員が身にまとい試合に臨んだ。

 合併球団という複雑な歴史をもつオリックス球団だが、「負の歴史」とも捉えられかねないこの歴史をある意味逆手にとり、例年復刻ユニフォームの企画試合を開催し、ファンからも好評を得ている。中でも球団のレガシーとも言えるブルーウェーブ2連覇時代のユニフォームは毎年のように採用されている。今年は、シーズン途中に年号が変わることもあり、平成野球史を語る上で欠かすことのできない仰木彬氏を偲ぶ試合として復刻試合を行った。

仰木マジック最大の「作品」、イチロー

 1988年、つまり昭和の実質最終年(昭和64年は1月7日まで8日から平成元年となった)から1992(平成4)年まで近鉄バファローズの監督を務めていた仰木彬が、オリックス・ブルーウェーブの監督に就任したのは1994年シーズンを前にしてのことだった。

 「仰木マジック」とも称された変幻自在の采配で、近鉄を当時無敵を誇った西武ライオンズのライバルチームに仕立て上げた手腕は、オリックスでも存分に発揮された。就任1年目、仰木は前政権下でくすぶっていたひとりの若者を抜擢、ありふれた姓のその若者を売り出すべく、名前をカタカナにして登録名とした。ご存知「イチロー」の誕生である。イチローは仰木の見立て通り、レギュラー外野手として安打を量産、シーズン210安打の日本記録(当時)を打ち立てた。その後の彼の活躍については、今更書く必要もないだろう。

 そして、就任2年目のシーズン。この年は、年明けに阪神淡路大震災が起き、ブルーウェーブが本拠を置く神戸は甚大な被害を受けた。その中、「がんばろう神戸」をスローガンにブルーウェーブは快進撃を続け、オリックス球団となって初、阪急ブレーブス最後の優勝となった1984(昭和59)年以来11年ぶりのリーグ優勝を果たす。

 それでもこの年は本拠神戸での胴上げは実現せず、日本シリーズでは野村克也監督率いるヤクルトに敗れてしまった。しかし、翌96(平成6)年にはチームの宿願であった神戸での胴上げを実現、さらには長嶋茂雄監督率いる巨人を破り、1977(昭和52)年以来19年ぶりとなる日本一にも輝いた。

 決して長くはなかった「オリックス・ブルーウェーブ」の歴史におけるハイライトであるグリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)でのリーグ優勝を決めるサヨナラツーベースを放ったのは、ほかならぬ仰木の秘蔵っ子、イチローであった。

苦難の歴史、そして統合球団へ

 しかし、ブルーウェーブの黄金時代は長くは続かなった。本質的に圧倒的な戦力というより、仰木の用兵、采配によるところが大きかったブルーウェーブの強さだったが、その後の世代交代が上手くいかず、連覇を伸ばすことはできなかった。

 2000年シーズン限りでイチローがメジャーへ旅立ち、翌01年に仰木が監督を退任すると、チームは急速に弱体化した。オリックス・ブルーウェーブはまさに仰木とイチローが日本プロ野球史に築き上げた楼閣だったのである。

 そして、2004年、球界を揺るがせた再編問題が浮上、その結果、オリックス・ブルーウェーブは、かつて仰木が指揮をとった同じ関西を拠点とする近鉄バファローズを吸収合併し、「オリックス・バファローズ」となった。

 この当時のチームの状況については、話す人によって言うことはまちまちである。旧球団の所属によって「派閥」があったと振り返る者もいれば、勝利に向かって鍛錬していくうちにわだかまりなどすぐになくなったと言う者もいる。しかし、この合併と同時に入団した、現在球団広報を務める町豪将は、こう語る。

「僕たちは何もわからず入ったんですが、やっぱり旧球団の所属でグループがあるんだというのは感じましたね。サインするときだって、皆さんブルーウェーブの方は『オリックス』、近鉄の方は『バファローズ』でしたから」

 このぎくしゃくした集団をまとめるのは、仰木しかいなかった。当時すでに病魔に侵されていた仰木だったが、それでも監督就任を承諾、統合球団をひとつの「チーム」にまとめると、それを最後の仕事に、天国へ旅立っていった。

 昭和から平成へと時代が移ろいゆく中、人気面で大きくセ・リーグに後れを取っていたパ・リーグは、ファンの注目を集めるようになった。今や、両リーグの「格差」はほとんどなくなったと言っていいだろう。その礎を築いたのひとりが仰木彬その人であることは間違いない。

平成最後の「仰木マジック」

 試合当日、開門前からオリックス・バファローズの本拠、京セラドーム大阪は多くのファンでにぎわっていた。ドーム内にあるチームショップでは、この日に合わせてブルーウェーブのアパレルやグッズを販売していたが、ブルーウェーブのレプリカユニフォームは、開店早々に売り切れとなっていた。

チームショップ、Bsショップはオープンから賑わいを見せていた
チームショップ、Bsショップはオープンから賑わいを見せていた

 

 試合前のプレ始球式には、ブルーウェーブ黄金時代を支えた小川博文(現解説者)、田口壮(現一軍総合兼打撃コーチ)、平井正史(現一軍投手コーチ)の3人がブルウェーブのユニフォームで登場、ファンを喜ばせた。

 そしてなんと言っても、この日の試合の主役は選手たちだった。

 連敗中の暗いムードを振り払うかのように、先発のアルバースはコーナーを丁寧につくピッチングで7回を3失点。初回に西武・山川の特大2ランで2点を先制されたものの、打線も粘り強く得点を重ねていき、最後は主砲・吉田正尚の打った瞬間それとわかるライトへの2ランで西武を突き放し勝利を収めた。この胸をすくうような勝利に、この日京セラドームに集まったファンはわいた。

オリックスの勝利に満員の観衆はわいた
オリックスの勝利に満員の観衆はわいた

 思えば、仰木が采配を振るった昭和最後の試合は、あの「10.19」(近鉄はシーズン最後の対ロッテダブルヘッダーの連勝すれば優勝だったが、2試合目を引き分けで優勝を逃した)だった。そして平成の幕開けの年、仰木率いる近鉄は、黄金時代を行く西武の連覇にストップをかけた。仰木の日本一の悲願は、この時は、巨人の前に阻止されたが、その7年後、ブルーウェーブの監督として、宿敵・巨人にリベンジするかたちで達成した。いつもイケルると見せかけてあと少し届かず、ファンをやきもきさせながら最後に手を届かせる。そんな仰木の生きざまを再現したかのようなこの日のゲーム展開だった。

 「この背番号を背負っては負けられない」

 試合後、敵チームの主力選手として仰木の采配を見てきたオリックス・西村監督は言った。平成最後の試合で、仰木がフィールドに戻ってきて見せたマジック。そんな印象の残る一戦だった。

新時代へ向けてマジックを見せてくれるのは…

この日のヒーローは土壇場で2ランを放った吉田正尚だった
この日のヒーローは土壇場で2ランを放った吉田正尚だった

「映像で振り返るイメージです」

 ブルーウェーブというチームについて、この日のヒーロー、吉田は試合後こう語った。現在25歳、平成5年生まれの吉田とって、自身が中学校に上がる時に消滅したブルーウェーブは、「歴史」の世界の話なのだろう。仰木に対するイメージについての質問にも、「こわもてのサングラス」と苦笑いしながら答えていた。

 それでも、仰木のDNAは確実にオリックス・バファローズに受け継がれている。

「僕自身は直接存じ上げませんが、一緒にやっていたコーチの方からは、豪快な方だったと聞いています。それでいて選手一人ひとりのこともしっかり見ていた方だったとも。苦しいゲームが続いていたので、今日は打ててよかったです。平成最後のゲームでいい思い出ができました。令和の1発目も打ちたいですね」

 この日、京セラドーム大阪には満員御礼となる3万4607人の大観衆が詰めかけた。不人気球団と言われるオリックスだが、今やこれも珍しいことではない。これも仰木ら平成のパ・リーグを盛り立てた先人が遺していったレガシーであると言えるだろう。スタートダッシュにつまづいたかたちのオリックスだが、この平成の遺産を新時代に継承すべくパ・リーグの台風の目となるべくこれからひと暴れもふた暴れもしてほしいものである。

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(写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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