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なぜ彼らは白球を追うのか?:サッカー大国・ブラジルから来た野球「還流移民」たち

阿佐智ベースボールジャーナリスト
東北楽天ゴールデンイーグルスでプレーするブラジル人選手ルシアノ・フェルナンド選手

 1908年4月28日、神戸港から1隻の船が出航した。その船、「笠戸丸」は、インド洋、そして大西洋を渡り、6月18日、コーヒーの積出港、サントスに着岸した。日本政府が主導した急速な産業構造の転換によって、当時、「食えない」人々が農村にあふれていた。政府は、地球の裏側にあるブラジルに彼らを「丁稚奉公」させることによってなんとか食わせることにしたのだ。コーヒー農園で働くことになった彼らは、地球の裏側で一攫千金を夢見ていたが、厳しい現実を前に、やがて故郷に錦を飾ることをあきらめ、「ニッケイ」ブラジル人になることを受け入れた。

 当時、ブラジルにはアメリカの企業が進出し、大都市では、週末ともなれば、アメリカ人ビジネスマンたちが野球に興じていた。それを見て、日系人たちもこのゲームをすることにした。1916年9月24日、サンパウロの空き地で日系人野球が産声を上げた。

祖国・日本ではすでに国民的スポーツになりつつあったこのゲームは、やがて「ニッケイ」のアイコンとなっていった。

 

ペンチアード青年会野球部(1941/昭和16年)写真提供:NPO関西ブラジル人コミュニティ
ペンチアード青年会野球部(1941/昭和16年)写真提供:NPO関西ブラジル人コミュニティ

 

 それから1世紀、日系人のスポーツとして発展したブラジル野球は、世界に飛び出した。2013年3月、福岡のヤフオクドームで行われた第3回ワールドベースボールクラシック(WBC)第1次ラウンドで、侍ジャパンを苦しめたのは、それまで国際舞台で無名だったブラジルだった。多民族国家を象徴するようにキューバ系黒人にヨーロッパ系も混じるベンチの中心には日系人たちの姿があった。

 サッカー大国ブラジルにあって、なぜ彼らは野球をプレーするのか、そして彼らブラジリアンにとって野球とはどんな存在なのか、それを探るため、日本にいるプロ野球選手たちを追った。

「ニッケイ」を確認する装置としての野球

瀬間仲ノルベルトさん(元中日ドラゴンズ)

「ブラジル人の町」、群馬県大泉町でレストランを営む瀬間仲ノルベルトさん(筆者撮影)
「ブラジル人の町」、群馬県大泉町でレストランを営む瀬間仲ノルベルトさん(筆者撮影)

「野球は、(アメリカではなく)日本のスポーツだと思っていました」

 と瀬間仲ノルベルトさんは回想する。

 留学先の宮崎の日章学園で出場した2002年の夏の甲子園。初戦で敗れはしたものの、彼は特大アーチを放った。高校通算58ホーマーのスラッガーは、その秋のドラフトで、ブラジル人として初めて指名された。7巡目で入団した中日での現役生活は3年と短く、1年間はプロ復帰を目指してトレーニングし、トライアウトにも参加したが、2006年の秋、現役生活に別れを告げ、22歳で第2の人生をスタートさせた。来日する同郷人に日本語を教えることからセカンドキャリアを始めた彼は、現在、リトル・ブラジルとも言われる群馬県大泉町でブラジル料理店を切り盛りしている。

 瀬間仲さんは自身のルーツについて詳細に語ってくれた。曽祖父が祖父を伴い沖縄からやってきたこと、本当の姓は「島仲」で、母の戸籍の書類を役人が誤って綴ってしまったため、「セマナカ」になってしまったこと、母方は日本人の血が100%で、自分はイタリア系の父との「ハーフ」であること…。

「母方が日系なんですが、日本に帰ったのは、僕が初めてです。母には『沖縄にいる島仲姓はみんな親戚なんだ』と教えられたので、一度電話帳で調べたら、見つけたんです。もちろん電話はしませんでしたが」

 彼の中にはヨーロッパ系と日本の血が半分ずつ入っているが、自身は「ニッケイ」に自分を重ねる。日本人の妻と家庭を築き、現在、取得のハードルの高い日本国籍を申請中である。その一方で、申請さえすれば、簡単に取得できるイタリア国籍取得は考えたこともないと言う。

「やっぱりブラジルでも僕たちは『ニッケイ』なんですよね。父はブラジルの風景に溶け込めますが、僕たちは結局、風貌が違う。学校でも、冗談なんですが、『おーい、日本人』ってからかわれたりしましたから」

 多民族多文化国家を標榜しているブラジルにあっても、その外見からやはり日系人は差別の対象になることも多い。その度、母親に疑問をぶつけた瀬間仲さんは、「ニッケイ」の苦難の歴史を知ることになる。野球を始めたのは、イタリア系の父親がなぜか野球を愛好していたからだというが、彼の生まれた町、トゥパンは、日系人が作った町、バストスにほど近かった。

「やっぱり、野球によって自分が日系人であることを意識できましたね」

 15歳で来日してはや18年。もはや日本での生活の方が長くなった。高校からプロ時代は毎年のように帰っていたブラジルにも、今では2,3年に1度帰るだけだと言う。将来的にも日本に骨を埋めるつもりだと言うが、今度はイタリア系の混ざった風貌と、少々なまりのある日本語が、彼を「日本人」に成りきることを阻む。結局自分は、「ブラジル人」であり続けるしかないことを彼はリトル・ブラジル、大泉で感じている。

 現在は、野球に携わることもほとんどないが、それでも、野球は自分にとって大きな存在であると言う。

「だって、野球がなければ日本に来ることもなかったでしょうから」

 現在の彼は「異国」にあって、「日系ブラジル人」として生きている。母国でマイノリティとして生きていく中での自己確認の装置だった野球は、現在、日本で生きていく心の拠り所となっている。彼の店、「カミナルア」は、この日も賑わっていた。テーブルに置かれたメニューの表紙には、「甲子園の怪物」の文字とともにカクテルシェイカーを振る彼の写真があった。

ブラジルと日本をつなぐ、野球という「太平洋を渡る橋」

ラファエル・フェルナンデスさん(元ヤクルトスワローズ)

現在は日本ハムファイターズで通訳を務める元ヤクルトのラファエル・フェルナンデスさん
現在は日本ハムファイターズで通訳を務める元ヤクルトのラファエル・フェルナンデスさん

「もう一度WBCに出たいですね」

 と語るのは、ラファエル・フェルナンデスさんだ。ヤクルトで2009年から2013年までプレーした彼は、現在北海道日本ハムファイターズの通訳をしている。まだ32歳、野球と決別した1つ年上の瀬間仲さんとは違い、いまだ現役復帰を模索中でもある。昨年オフも12球団合同トライアウトに参加し、打者4人をパーフェクトに抑える快投を見せた。

 2013年3月、ブラジル代表チームは、福岡でのWBC第1ラウンドで優勝候補の侍ジャパン相手に3対5という接戦を演じた。フェルナンデスは、この試合の先発投手として侍ジャパンを3回無失点に封じこめた。今にして思えば、これがブラジル野球が最も輝いた瞬間だった。

 フェルナンデスさんに、日系の血は一滴も混じっていない。幼少時、たまたま観た映画のワンシーンに出てきた野球のプレーシーンが彼を野球にいざなった。サンパウロ生まれの彼の転居先が日系人の多い町だったことが、野球を始めるきっかけとなった。サッカーの国に生まれながら、その「ナショナルゲーム」に夢中になれなかった少年は、野球にのめり込んでいった。

 野球を始めた10歳の時、彼はすでにプロ野球選手を夢に描いていたという。彼の素質を見込んだ日系人が彼を支援し、その支援により、彼はこの国のエリートが集まる「アカデミー」に進むことになった。15歳の時、初めてナショナルチームのメンバーになった彼は、アメリカで行われた大会も経験。日本の大学にスカウトされることになった。

「びっくりしたね。練習も厳しかったし、何と言っても、厳しい上下関係。たった1歳違うだけでなんであんなに偉そうになるのかって思いましたよ」

 それでも来日時、全く話せなかった日本語も、2年も経ったころには、日常会話には困らなくなった。様々なギャップも、自分より先にブラジルから渡った選手がいたことから乗り越えることができた。

 ドラフトでのヤクルトからの指名は育成枠だったが、迷うことはなかった。実はもっと待遇のいい実業団からの誘いもあったが、彼はプロを選んだ。

「だって、プロになるために日本に来ましたから。社会人野球に行くくらいなら、ブラジルに帰るつもりでした」

 残念ながら一軍での登板は通算10試合に終わった。1勝を挙げただけで、5年で自由契約を言い渡された。あのWBCが行われた2013年シーズンが彼の最後のシーズンとなった。就労に制限のない日系人と違い、興行ビザで日本に滞在していた彼は、この後帰国を余儀なくされ、2014年は来日前にいたクラブチームでプレーしたが、その後、パナマのウィンターリーグで「プロ復帰」を果たすと、2015年シーズンは四国の独立リーグ、その冬もオーストラリアのウィンターリーグでプレーし、今に至るまでNPB復帰を目指している。

 彼にとって、野球は好きなもの以上の意味はない。それが「ニッケイ」のスポーツであることは、野球を始めたとき、周囲を見渡せば、日系人ばかりだったことから理解したが、そもそも多民族国家ブラジルに生まれた彼にとって、そんなことはどうでもよかった。インタビューの冒頭、幼少時、自分の周りに日系人が多かったのかという私の問いに、彼は、「ニッケイの中国人はいました」と答えた。少年の頃、彼は「ニッケイ」という言葉の意味さえ、正確には知らなかった。

 ブラジルにはもう1年半以上帰っていない。2016年秋にニューヨークで行われた第4回WBCの予選大会の直前に帰ったきりだ。再来日の後、日本人の妻を娶った彼には、それ以来、日系人と同じ、就労に制限のない在留資格が与えられている。だからオーストラリアのシーズンが終わった後も、NPB復帰を目指して、彼は日本に留まり、工場勤めをしながらクラブチームでプレーを続けた。結局、昨年夏に、ラテン系選手をシーズン途中に入団させた日本ハムからのオファーを受けて、通訳の職を得、プレーからは離れることになったが、それでも、いまだ現役復帰を完全には諦めてはいない。

 現在彼は、関東で公務員勤めをしている妻と離れ、札幌の球団寮で暮らしている。その姿は、母国に家族を残してデカセギに来るブラジル人の姿とも重なる。来日以来、ホームシックにはしょっちゅうなるという彼だが、かといって、ブラジル人コミュニティにわざわざ足を運ぶことはほとんどない。将来について尋ねると、

「ブラジルに帰るかというと、そうでもないです。かといって日本に住み続けることもあまり考えません。ハワイあたりでのんびりしたいですね。それに、そんなことあまり考えても仕方ないじゃないですか。今したいことを一生懸命やれば、将来も見えてくると思います」

 彼には、妻との間に1歳になる子供がいる。日本語しか話せない妻は子供に日本語で話しかけるが、フェルナンデスさんは母国の言葉、ポルトガル語で話しかけている。

日本で結びついた「ニッケイ」と野球

ルシアノ・フェルナンド選手(東北楽天イーグルス)

ホームゲーム後、インタビューに応じてくれた楽天イーグルスのルシアノ・フェルナンド選手
ホームゲーム後、インタビューに応じてくれた楽天イーグルスのルシアノ・フェルナンド選手

 WBCで侍ジャパンと死闘を演じたチーム・ブラジルのメンバーの多くは、当時日本のプロ野球でプレーしていた選手である。この「WBC組」に、この時すでに引退していた瀬間仲さんを含めた者たちは、母国ブラジルで野球を始めた「第一世代」というべき存在である。日系の血が全く入っていないフェルナンデスさんを含め、彼らにとって野球は、「ニッケイ」のスポーツである。

「僕らにとって野球は特別な意味をもってますけど、彼らにとってはそうではないでしょうか」

 瀬間仲さんは、自分たちの後に日本プロ野球界に身を投じた「第2世代」について、このように述べた。

 現在、日系ブラジル人は4世あるいは5世の時代を迎えている。その中、「デカセギ」で来日した「還流移民」は2世の時代に突入している。バブル期に大量に日本にやってきた彼らの子供世代が、現在、成人を迎えつつあるのだ。

 東北楽天ゴールデンイーグルスでプレーするルシアノ・フェルナンド選手も日本育ちのブラジル人のひとりである。2015年シーズンからプレーしている彼は、福岡での死闘は経験していない。

「野球は僕にとって、人生そのものです。野球がなかったら今の僕はないです」

 フェルナンド選手の言葉には重みがある。

 26歳の彼は、1997年、5歳の時に、出稼ぎに来た3世の親とともに来日した。彼には日本人の血は8分の1しか流れていない。イタリア系に加え、先住民のDNAも受け継ぐ彼の外見からは「日系」を感じることはない。

 「日本に来たくはなかった」という少年は、あらかじめ聞かされていたとおり、いじめにあった。理不尽な仕打ちは、彼を「国技」にのめり込ませた。気が付けば、彼は兄とともにサッカーボールを蹴っていた。日系ブラジル人による労働者の国際移動の波が起こって10年ほどが経っていた当時、彼が移り住んだ群馬県太田市のようデカセギ先には、ブラジル人コミュニティが形成され、「国技」であるサッカーやフットサルのクラブが日系人によって設立されていた。

「正確にはフットサルなんですけど、日本人チームとの対戦の時には燃えましたね」

 フットサルは、日本への複雑な思いを晴らしてくれるものだったが、小学5年の時、フェルナンド兄弟は、ゆえあってボールを蹴るのを辞めてしまう。たぐいまれなる運動能力をもてあましたルシアノ少年の目に飛び込んできたのは、放課後の校庭で行われていた野球だった。

「どうだ。お前もやってみないか」

 指導者からのひと声が運命を変えた。白球を手にした彼は、プロへの階段を駆け上った。

 プロ入り4年目。大卒の彼にとって、今シーズンは正念場である。本人もそれを自覚してか、昨年オフにはメキシコのウィンターリーグに武者修行に出た。ラテン系の名前、風貌は現地に溶け込み、スタンドのファンは彼を「ラティーノ」としか見なさなかったが、日本育ちの彼は、ここで初めて自分が「日本人」だと感じたという。

 しかし、改めて今回、日本で話を聞くと、自身を「ブラジル人」と表現する。彼にとって、曾祖母から授かった「ニッケイ」は、「デカセギ」の資格以上のものではなく、そこからエスニシティを感じることはない。

「(日本生まれの)ひいおばあちゃんには感謝です。だって、日系の血が流れているから日本に来ることができましたから。言葉だって、いくつも話せますからね」

 日本で育ち、日本の文化、習慣を受け入れながらも、同質性を好む日本社会にあって、フェルナンド選手は、その外見ゆえにアウトサイダーを脱することはできない。それゆえ、彼は「ニッケイ」に自らをアイデンティファイすることはない。

 野球というスポーツの存在は、来日して初めて知ったと言う。はじめはそれがアメリカ生まれのスポーツであることも知らず、「ニッポンの球技」として受け入れた。それでも、野球とブラジルは彼の中で結びついている。彼もまた、チーム・ブラジルのユニフォームに袖を通した。2016年に行われた第4回WBC予選で、母国の代表チームに名を連ねたのだ。

「予選ではあるけど、一番出たかったWBCという大きな大会に呼んでいただいたというだけでものすごく興奮しました。サッカーではブラジル代表はありますけど、野球ではなかなかないでしょう。自分がブラジルを背負って野球をやることによって、少しでもブラジルの子供たちに野球の素晴らしさを伝えたいと思ってプレーしました。ブラジルの野球は、日本とは全く違ってものすごく熱かったです。選手はものすごく興奮して、一球にかける思いが違いましたね」

 両親には入団時の契約金でブラジルに家をプレゼントした。自身は将来、日本に永住するのか、ブラジルに戻るのかまだ決めていないが、日系人たちがブラジルに伝えた野球を通じて太平洋を渡る架け橋になるという思いは持ち続けている。

野球によって形成されるブラジルという「想像の共同体」

現在、日本各地にブラジル・タウンが形成されている(群馬県大泉町)
現在、日本各地にブラジル・タウンが形成されている(群馬県大泉町)

 ブラジルから日本への還流移民が大量発生したのは、年号が昭和から平成に変わる頃のことである。経済低迷にあえぐブラジルと、バブル景気を迎える日本が、日系人を触媒として結びついた。日本が近代化に突き進む中、半ば「棄民」として送られた1世たちが人生の終焉を迎えようとする中、「祖国訪問」として緩和されたビザ要件は、アジア系の不法外国人労働者に替わる労働力として、日系ブラジル人を日本に吸い寄せた。製造業を担う地方都市が人口減により労働力不足に陥る中、日系ブラジル人たちは、好景気に沸く日本社会を下支えしてきた。

 大量の日系ブラジル人が、かつて彼らの父母・祖父母がそうしたように「一攫千金」を目指して海を渡ってきたとき、彼らはすでに「ニッポン人」ではなく、「黄色い肌をしたブラジル人」になっていた。

 日本とブラジルの関係を見渡してみれば、平成という時代は、両国の人の流れが、逆流した時代と言える。ブラジルから日本へという、近代前期のそれとは逆の流れの中、野球選手の移動もそのひとつして起こったものではないだろうか。アメリカから持ち込まれたものの、「ニッケイ」のスポーツとしてブラジルで発展した野球は、多くの人材を日本のプロ球界に送り込んだが、異国の地にあって、ブラジル人選手たちにとって、野球は単なるスポーツ、あるいは職業以上の意味を持っている。今回話を聞いた日本のプロ野球に身を投じた3人の日本社会、あるいは野球界における立ち位置はそれぞれ違う。しかし、彼ら日本でプレーする、あるいはしていたブラジル人たちは、野球という「日系人スポーツ」によって、異国において「ブラジル」という想像の共同体を心の中に持ち続けることができている。

(出典明示のない写真はすべて筆者撮影)

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています】

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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