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トラの韋駄天、博多の盗塁王、大野久のアメリカ独立リーグコーチ修行

阿佐智ベースボールジャーナリスト
アメリカ独立リーグ、ニュージャージー・ジャッカルズのコーチに就任した大野久

「♪韋駄天、大野が行くぞ~、嵐を呼べ呼べレッツゴー、レッツゴー!セカンド、サードにホームスチール、大野は止まらない~♪」

 もう30年以上前のことになるのだろうか、この応援歌を満員電車で聞かされながら20分ほど過ごしたことがある。伝統の阪神・巨人戦、当時ジャイアンツ・ファンだった私は、タイガースの勝利に湧く電車内で肩身の狭い思いをしながら帰ったのだが、延々とリピートされる、その日のヒーローの応援歌を覚えてしまう羽目になった。

 そんな昔話をすると、あの試合のヒーロー、大野久は相好を崩した。

「その試合、サヨナラ打ったんじゃないかな。そんなことがあったんですか、うれしいな」

 彼は今、アメリカにいる。優勝フィーバーに沸いた1985年に入団、その後の低迷期に「阪神少年隊」のひとりとして頭角を現し、年号が平成に変わった1989年には3割をマークした。その後、1991年にダイエーに移籍すると、盗塁王のタイトルを取り草創期のチームを支えた。そんな男が今、アメリカに渡り、独立リーグの指導者として再びユニフォームに袖を通している。

渡米前にインタビューに応じてくれた(筆者撮影)
渡米前にインタビューに応じてくれた(筆者撮影)

野球界の発展のために

 そんな、男の口からいきなり出てきた言葉は、意外なものだった。

「実はね、僕自身は、『独立リーグ』ってやつには反対なんです」

 ではなぜその独立リーグの指導者になるのだという私の疑問は、すぐに解消した。彼の「反対」は国内のそれに向けられた言葉だったのだ。

「だって、中途半端でしょ。プレーしながらお金もらっているのに、NPB(プロ野球)からは、アマチュア扱い。ドラフトの対象ですから。なのに、アマチュア球界からはプロ扱い」

 独立リーグの扱いについては、ドラフト対象にしないと、希望球団への迂回路に利用される恐れがあるなどの理由もあるのだが、彼の目には、日本の独立リーグを取り巻く環境が、まだまだ「選手ファースト」になっていないと映るようだ。しかし、社会人実業団チームが縮小傾向にある今、若い選手の受け皿が必要であることも痛感している。

「でもね、こうも考えるんです。我々の時代の25,6歳っていうと、もう落ち着いて、ちゃんと仕事をして身を固めないとって言う感じでしたけど、今は、もっと経験しなければならない、大学出て22歳位だったらまだ足りないんじゃないかと。もう少し伸ばして30歳位まで自分の可能性を求めていくのであるならば、それは止められないかってね。だから、これからは、逆にその経験を次に活かせるよう教育をしてやらねばならない」

 

 今回の渡米は、日本の野球界を変えようという彼のライフワークの一環としてのもののようだ。

紆余曲折の引退後

 大野が引退したのは1995年オフ。そのまま現役を終えた中日の二軍外野守備走塁コーチとなった。しかし、それも2シーズンで解任される。それでも、1年待てば、という条件付きで古巣・阪神からコーチの打診があったが、約束の1年を待ってふたを開ければ、監督人事の変更で、コーチ就任の話も立ち消えになった。

 途方に暮れる大野は、出身大学である東洋大に足を運んだが、ここで系列高校の野球部監督を打診される。この時点で教員免状のなかった大野を待ってくれるという学校の姿勢に、これを承諾した。2年間、大学に入り直して、高校の地歴公民科教員免許状を取得、2001年春から、教師として教壇に立った。当時、元プロ野球選手が高校野球の指導者になるには、教員として2年の実務経験が必要だった。大野も、2003年4月までは、一教師として高校生に向き合った。

「全く普通の先生ですよ。生徒はもう僕の現役時代なんて知りませんでしたから(笑)。さすがに野球部の生徒は、自分たちが主力になる年には僕が監督になるって言うんで、一目は置いてくれましたけど」

 そして、晴れて監督になったものの、ことは大野の思うようには進まなかった。日本の野球の頂点での経験を生かして甲子園と意気込む大野に浴びせられた周囲の視線は、冷たいものだった。

「結局、僕でなくてもよかったみたいです。学校は野球部を担当してくれる教員が欲しかっただけで、強くして甲子園に行って欲しいなんていう気はなかったんです」

 熱心に指導すればするほど軋んでいく職員室の人間関係に嫌気がさした大野は、2013年秋、教壇を去る決意をした。監督の座は、その春にはすでに奪われていた。

オーストラリアで出会った別の野球

 教壇を去った大野は、オーストラリアに新天地を求めた。夫人がここで事業を行っていたこともあり、生活のベースはあった。「留学生」として語学学校に通いながら、次の人生を模索する中、現地野球関係者の紹介で、パートタイムではあるが、高校に野球コーチとしての職を得る。

「向こうの学校には、週2回、午後にクラブ活動の日というのがあるんです。と言っても野球部ではないですね、『野球科』という授業です。だから練習だけ。ゴルフもあるし、バスケもありました。そこの生徒の中には、クラブチームで野球している子もいて、僕も関係者を通じて誘われるんですよ。生徒に『来週行くぞ』って、一緒にやるんです(笑)。そのうち、プロのウィンターリーグにも誘われたんですが、そちらは日本の現役選手が来るって言うんで、おじゃんになりました」

 

 オーストラリアで出会ったのは、日本とは別の野球だった。フィジカルは十分だが、経験不足からその潜在能力を引き出していない選手が多かった。

「みんなクリケット打ち(笑)。野球に専念すればもっと伸びるのにっていう選手は多かったです」

 その一方で、野球以外の人生を楽しむ、オージーたちを前の前にして人生観が変わったのも事実だった。この自由な気風は、ストレスフルな日本の環境から逃げてきた若者を吸い寄せていた。

「僕の勤めていた学校には、各国からの留学生がたくさんいました。日本からの子もいて、そういう子とも話をするんですね。多くの子たちが、日本では、部活でいじめにあってドロップアウトしていました。僕が教師をしていた時も、そんな感じで部活を辞めて、学校からも去っていく生徒がいました。こっちは、『野球辞めても学校は続けよう』って言ったんですけど…。人生、野球だけじゃないんですけどね」

 そうやってドロップアウトした日本の少年少女たちがオーストラリアで、チャンスをつかむ様に大野は衝撃を受けた。1年間の留学ののち、帰国子女枠で、日本の有名大学に戻っていく彼ら彼女らの姿に、大野はひらめいた。「今後は野球を通じて若者に夢を託そう」と。

「リタイア」と言いながら、大野は走り続ける

 2年のオーストラリア生活の後、大野は2015年に日本に戻り、一般社団法人「J&A セカンド・ドリーム・アソシエーション」を夫人とともに設立する。今は、野球教室や講演で飛び回る毎日だ。

「Jはジャパン、Aはオーストラリアです。ここで我々の夢を若い奴らに乗っけられればいいかなって」

 すでに、いじめにより入学前の練習時点でドロップアウトしてしまった球児をオーストラリアに送ったという。ただ、海外への留学は、費用の面から誰にでもできるものではない。そこで、短期留学というかたちではあるが、寄付で資金を募り、帰国後、技術顧問をしていたヤングリーグの選抜チームを結成してオーストラリアへ遠征を行った。午前中は提携先の私立高校で授業、午後は野球というプログラムに少年たちの顔は輝いていたという。

 そういう中、舞い込んで来たのが、北米独立リーグのコーチの話である。野球に関する活動を行う中で知り合ったカンナムリーグ(カナディアン・アメリカン・アソシエーション)のニュージャージー・ジャッカルズのコーチをしている日本人との再会が大野の野球への情熱に火をつけた。本場アメリカでのコーチ修行を申し出ると、球団は大野の希望を受け入れてくれた。大野に期待されるのは、日本で培った走塁術だ。

「このリーグは、独立リーグの中でも可能性のある人たちが集まっている場所だと聞いています。キャンプでメジャーのロースター落ちして、トリプルAだったら行かないよっていう人も混じっているらしいんです。あと走塁だけを教えれば、メジャーに行ける素材がいるとのことです。それを教えてくれないかということです」

 球団が与えてくれたチャンスに大野は感謝するとともに、その期待に応えるべく選手たちに熱血指導を行っている。 

 しかし、そこは独立リーグ。シーズン中の住居は何とかするが、渡航費は自前、ビザの関係もあってギャラはなしという、ほぼボランティアという条件でのオファーだった。しかし、大野はこれを受けた。

「いや、僕ね、あと2年、60歳でリタイアしようと思っているんです。もう仕事をしないっていうんじゃなくて、あとは好きなことだけやろうって。好きなかたちで野球を通じた懸け橋になれればってね。そう考えると、今回指導した選手がトリプルAやメジャーに上がったとき、あるいは日本に来たとき、誰に教わったんだってなると、そこで僕の名前も出てくるでしょう。そうなると、いい選手を日本に連れていくエージェントみたいなこともできるでしょう」

 もちろん先述したような、日本から海外へ若者を送る事業も続けるつもりだ。

「この間、小学校に出前授業に行ったんです。そこで、お前は将来何になりたいんだって聞いたら、プロ野球選手って答えるんです。じゃあ、プロ野球選手になってどうするんだっていう話になってね。プロ野球選手っていう時代が、自分の人生でどれくらいあるのかって言うことを考えなきゃならないよって。日本じゃ、現役を終わった後のことなんか教えてくれませんからね。僕らの頃は、プロ野球選手になれるんだ、じゃあなれ、頑張れ!、それだけでしたから。その先の人生、どれだけ長いねん、ってことですよ。僕も36で引退してもう22年です」

 「リタイア」はどこへいったやら。その22年で培ったことを大野は、これから若者に伝えるべく、この夏はアメリカで走り続ける。カンナム・リーグは現地時間17日に開幕したが、ビザの関係もあり、このカナダへの遠征には参加しない。来週25日のホームゲームでアメリカデビューを飾る。

 やっぱり、大野は、止まらない。

(写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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