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マラウイで狂犬病による死者が激減 常識を覆した衛星データの利用法とは

秋山文野サイエンスライター/翻訳者(宇宙開発)
Credit: Mission Rabies

2021年2月、世界トップレベルの総合科学誌『米国科学アカデミー紀要(PNAS)』の表紙を可愛い子犬の写真が飾った。アフリカのマラウイ共和国で毎年500人もの死者を出していた狂犬病を防ぐワクチンの接種率を向上させ、子犬や妊娠中の犬への接種も可能にした地理情報システム(GIS)に関する画期的な論文が掲載されたのだ。

狂犬病は、犬だけでなくすべての哺乳類が感染するウイルスによる感染症であり、発症後の有効な治療法はないという恐ろしい病気だ。以下、そんな狂犬病の感染症対策を、データによって劇的に改善されたマラウイの事例について解説をしていく。

PNAS 2021年2月2日号の表紙となった、マラウイで狂犬病ワクチン接種を受ける子犬。Credit: Mission Rabies
PNAS 2021年2月2日号の表紙となった、マラウイで狂犬病ワクチン接種を受ける子犬。Credit: Mission Rabies

年間500人が狂犬病で命を落としていたマラウイ

人口およそ1900万人、アフリカ南東部にある内陸の農業国マラウイは、年間500人が狂犬病で命を落とすという。

WHO(世界保健機関)では「2030年までに犬によって感染する狂犬病によるヒトの死亡者数をゼロにする」という目標を掲げているが、実はヒトの狂犬病感染の99パーセントは犬からのもの。一国内の犬の70パーセント以上に狂犬病ワクチンを接種することで、感染拡大を予防し、ヒトへの感染リスクを下げることができる。「狂犬病清浄国」といわれる日本では毎年4~6月に飼い犬へのワクチン接種が義務付けられているが、途上国では費用やワクチン接種の機会を作ることなど負担が大きく、なかなか接種が進んでいないのが現状だ。

出典:厚生労働省感染症情報「狂犬病」より世界の狂犬病発生状況(2017年WHO発表資料より)
出典:厚生労働省感染症情報「狂犬病」より世界の狂犬病発生状況(2017年WHO発表資料より)

狂犬病に苦しむ途上国へワクチン接種の支援を行うイギリスの国際NGO「Mission Rabies(ミッション・ラビス)」は、これまでマラウイやウガンダ、タンザニアなどアフリカの各国へ接種機会を提供してきた。

マラウイで子犬に狂犬病ワクチンを接種するスタッフ。Credit: Mission Rabies
マラウイで子犬に狂犬病ワクチンを接種するスタッフ。Credit: Mission Rabies

ミッション・ラビスがマラウイ第2の都市ブランタイヤで狂犬病のワクチン接種を開始したのは、2015年。市内の学校などに接種会場を設け、毎年20日間の期間中に無料でワクチンを提供している。2000年ごろに青年海外協力隊でマラウイへの赴任経験を持つライターの大塚実さんによれば、「マラウイはアフリカ諸国の中では治安が良い国ですが、泥棒の被害などもあるため番犬を飼っている人は多い」という。そのため野良犬よりも飼い犬 が多く、連れていきさえすれば狂犬病ワクチン接種を受けられるミッション・ラビスの活動は、飼い主にとってもありがたい機会提供のはずだ。しかし、接種率70パーセントの目標達成は容易ではなかった。

マラウイの犬たち。画像提供:大塚実さん
マラウイの犬たち。画像提供:大塚実さん

2015~2017年の接種活動で、人口約80万人のブランタイヤ市内でワクチン接種を受けた犬の数は3万4000~5000頭程度。このうち3分の1近くの9000~1万1000頭に接種するために、「戸別訪問(D2D)」方式が必要だった。一軒一軒、世帯ごとにスタッフが訪問してワクチンを接種する方式で、コスト、時間、スタッフの労力は非常に大きい。だが「固定接種会場(FSP)」方式だけでは70パーセントの接種目標を達成できないため、こうするしかなかったのだ。

とはいえ80万人といえば、日本では新潟市に近い人口。戸別訪問による対処をずっと続けていくというのは現実的ではない。そこでミッション・ラビスは、データを駆使して接種を妨げる要因を突き止め、取り除く研究を行うことにした。

目をつけたのは、人工衛星から位置情報を送るGPSの行動記録データだ。世界中に無償で提供されているGPS位置情報は、途上国でも利用しやすい最も身近な衛星データのひとつ。実は途上国ではスマートフォンの普及が進んでおり、狂犬病ワクチン接種記録のためのアプリが配布されている。このアプリのGPSデータを分析したところ、犬を飼っている人々がワクチン接種会場に来ない要因が判明したのである。

明らかになった距離の壁

GPSデータで明らかになったのはシンプルな事実だった。自宅から接種会場まで、直線距離で812メートル以上離れていると接種率が極端に落ちる。さらに、実際に歩く距離が1.5キロメートルを超えると、犬を連れて来る人はほとんどいないことがわかった。

812メートルの壁が発生する理由はいくつも考えられる。アフリカ諸国では道路のインフラが整備されていなかったり、老朽化していたりといった場所も多い。日本からもJICAの活動でブランタイヤ市内の道路整備支援が行われてはいるが、まだまだ歩きにくい箇所も多いと考えられる。また、論文によればマラウイで犬をワクチン接種会場に連れてくる役割は子どもたちが担っていることが多いという。長い距離を歩くだけでも子どもにとっては負担である上に、普段の行動範囲を外れ、知らない場所に行かなければならないというのはとても難しいことだろう。

マラウイで狂犬病ワクチン接種に犬を連れてくるのは子どもたちの役目となっている。Credit: Mission Rabies
マラウイで狂犬病ワクチン接種に犬を連れてくるのは子どもたちの役目となっている。Credit: Mission Rabies

距離の壁が原因と特定できたならば、接種会場の配置を見直して、よりアクセスしやすくすればよい。そこでミッション・ラビスはこの計画づくりにも衛星データを利用した。Google Mapの衛星画像を利用して、ブランタイヤ市内を79のエリアに分割したのだ。ユニークだったのは、エリア分割に既存の行政区を使うのではなく、画像から家屋の大きさによって世帯密度を推定する方法をとったことだ。小さな家がたくさんある(世帯数が多い)エリアは小さく、家屋以外の商業エリアやオープンスペースが多い場所は大きく、というように1エリアに含まれる世帯数のバランスが取れるよう配慮した。

2018年、ブランタイヤ市内の77パーセント以上の犬が、家庭から直線で812メートル以内でワクチン接種を受けられるようになった。Credit: Mission Rabies
2018年、ブランタイヤ市内の77パーセント以上の犬が、家庭から直線で812メートル以内でワクチン接種を受けられるようになった。Credit: Mission Rabies

GISを駆使した計画であげた「成果」

こうして作られたベースマップに従い、狂犬病ワクチン接種会場が設置されていった。固定接種会場は2017年までの44カ所から、77カ所へと拡大し、コストの大きすぎるD2D方式は思い切って全廃した。ブランタイヤ市内の犬たちの77パーセントが、直線距離812メートル以内でワクチン接種に来られるようにするためだ。また、従来の固定接種会場は子どもたちがよく知る学校などを利用していたが、それでは数が足りないため、出張型の臨時接種会場を設けて会場数を補うことにした。

そうした準備を経て迎えた2018年。ブランタイヤ市内での狂犬病ワクチン接種は、従来のほぼ半分の日数、わずか11日間で接種目標を達成した。さらにスタッフ総数の削減にも成功。2015~2017年の場合、20日間の狂犬病ワクチン集中接種期間に必要だったスタッフは1719人※。打ち手1350人のうち、訪問接種スタッフは792人と6割ほど が訪問接種に駆り出されていた計算だが、2018年はスタッフ総数904人(打ち手は371人)にまで削減することができた。接種を受けた犬は約3万3000頭で、時間・人的コストを半減しながら70パーセント以上の接種目標を達成することができた。※人数はすべて述べ

ワクチン接種期間中、子猫も保護された。Credit: Mission Rabies
ワクチン接種期間中、子猫も保護された。Credit: Mission Rabies

2019年、そしてコロナ禍の2020年にも同じ方式を踏襲し、ブランタイヤ市での接種数 はそれぞれ4万8496頭で75パーセント、2020年は5万7868頭で76パーセントとさらに向上している。ミッション・ラビスは、2020年の成果について「コロナ禍でワクチンの到着が遅れ、感染対策をしなければならない 状況でしたが、2020年にはマラウイ全体で10万2375頭の犬にワクチン接種を行うことができ、一昨年よりも大幅に接種数が増加しています」と最近の成果について報告した。狂犬病ワクチン接種率向上のために準備していたGISを駆使した計画が、新型コロナウイルス感染症による不利な状況にも打ち勝ったのだ。

ミッション・ラビスが狂犬病ワクチン接種を始める前、マラウイでは3年間で12人の痛ましい、子どもの狂犬病による死亡が報告されていた。ワクチン接種開始後、子どもの死者数は3年間で2人まで低下している。70パーセントを超えて快進撃を続ける狂犬病ワクチン接種活動は、確実にこれからも子どもたちの命を救うはずだ。

余ったリソースは教育活動へ

データを駆使した計画によって、ブランタイヤ市でのワクチン接種に必要な人的コストは大幅に削減された。余裕が生まれることでスタッフは、狂犬病ワクチンに対する教育活動にも力を入れることが可能になる。例えば、これまで接種に連れられてくるのは成犬が多く、子犬や妊娠中の犬は接種を受けにくいという課題があったが、これは、「子犬に(妊娠中の犬に)狂犬病ワクチンが害になるのでは?」という懸念を持つ人々が多くいたためだ。そこで教育スタッフは、安心して子犬や妊娠中の犬がワクチンを受けられるよう、啓発活動を行った。PNASの表紙を飾った子犬は、マラウイの人々が安心して狂犬病ワクチンを受け入れ、子犬にも接種を受けさせられるようになった証なのだ。

ミッション・ラビスの活動に参加している唯一の日本人である獣医師の田澤圭一郎さんは、次のコメントを寄せてくれた。

「狂犬病は一旦発症すると致死率ほぼ100パーセントで、効果的な治療がない非常に恐ろしい病気ですが、日本では過去50年に海外渡航中の動物の咬傷による輸入症例が数件あるのみで、過去の病気として認識されているように思われます。しかしながら、世界の多くの国々では狂犬病は未だに撲滅されておらず、毎年何万人もの死者を出しています。狂犬病が蔓延する地域の多くでは、地理的、文化的要因もあることながら、狂犬病のサーベイランス※に割くことのできる人的、物的資源が足りていないため、満足のいく予防ができていない現状があります。※「サーベイランス」:持続的な感染症情報の収集・分析活動

私共のプロジェクトは、そういった地域に技術、知識供与を通じて、狂犬病に対する持続可能な予防を取り入れていくことを念頭に行っております。マラウイでも上述のように犬に対する狂犬病ワクチンの大量接種を行うだけではなく、行政と協力して初等教育に狂犬病のカリキュラムを組み込み、サーベイランスシステムの導入も行いました。これらの活動を通して得られた経験と知見は別の国、地域での狂犬病撲滅のプログラムの構築に有用であり、更には、他の感染症の防止にも流用でき得るものであるため、フィールド経験の多い私共のような国際NGOがこのように研究の場でも発表していくことが重要だと考えております。

今は新型コロナウイルスの世界的な流行によって各地で狂犬病にかけられるリソースが減少してしまいましたが、ミッション・ラビスは引き続き“Zero by 2030”を目指して邁進して参ります。日本の方々が参加できるアフリカ、東南アジアでのボランティアトリップも御座いますので、国際的な往来が可能になった際には、是非ともご支援の程よろしくお願い致します。」

GISとは、地図という情報をキーにして異なるデータを重ね合わせて分析し、さまざまな社会課題の解決を図るとができる技術だ。もともと地図作りに使われてきた衛星画像、GPS位置情報などはGISと親和性が高い。現在では、宇宙から地上の様子を観測した衛星リモートセンシング情報を地図に重ね合わせて途上国支援の場で利用されることも多く、衛星画像から農作物の成長を調べて農業を支援したり、夜間の地上の人工照明の明るさから経済活動を割り出して貧困の撲滅につなげたり、3D地図を元に病害虫の発生を予測し感染症対策したり といった応用が広がっている。

GPS位置情報と衛星画像を活用したデータドリブンな計画策定、人的・時間的コストを削減しながらも接種率目標を維持してさらに向上させた成果、余裕が生まれたリソースを教育活動へと転換、マラウイでのミッション・ラビスの活動は、お手本のようなGIS活用だといえる。

寓話『北風と太陽』でいえば、太陽のように、穏やかに人々の行動変容を促して感染症から人々を守るその方法論は、狂犬病対策の枠を越えて学ぶところが多いはずだ。

■参考文献

Using data-driven approaches to improve delivery of animal health care interventions for public health

https://doi.org/10.1073/pnas.2003722118

Mission Rabies

http://www.missionrabies.com/

【この記事は、Yahoo!ニュース 個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

サイエンスライター/翻訳者(宇宙開発)

1990年代からパソコン雑誌の編集・ライターを経てサイエンスライターへ。ロケット/人工衛星プロジェクトから宇宙探査、宇宙政策、宇宙ビジネス、NewSpace事情、宇宙開発史まで。著書に電子書籍『「はやぶさ」7年60億kmのミッション完全解説』、訳書に『ロケットガールの誕生 コンピューターになった女性たち』ほか。2023年4月より文部科学省 宇宙開発利用部会臨時委員。

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