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宇宙望遠鏡をひっくり返すとスパイ衛星になる? 『ゼロからわかる宇宙防衛』

秋山文野サイエンスライター/翻訳者(宇宙開発)
来年で打ち上げ30周年を迎えるハッブル宇宙望遠鏡。Credit: NASA

2020年4月、ハッブル宇宙望遠鏡(HST)は打ち上げから30周年を迎える。息を呑むような宇宙の姿を次々と見せてくれたHSTだが、打ち上げ当初から光学系の問題を抱え、スペースシャトルに搭乗した宇宙飛行士が駆けつけて壮大な軌道上の修理を行ったことでも知られる。

宇宙望遠鏡を見舞ったトラブルは、1993年に始まったスペースシャトルによるハッブル修理ミッションだけでなかった。打ち上げ後まもなく、観測対象を正確にポインティングできないというかなり深刻なトラブルが見つかっている。

この問題はHSTの本体ではなく、両側に突き出した太陽電池パネルが原因だった。HSTは96分に1回、地球を周回する。軌道上で、片側の太陽電池パネルには太陽光があたって温度は約50度に、反対側のパネルは影になってマイナス80度という極端な温度差が生じた。HSTの本体は熱から保護するためのフィルムで覆われているが、むき出しの太陽電池パネルで生じた温度差はステンレス製の支柱を伝い、温度差による衝撃となって本体を襲った。

HSTは軌道上で「ジッタ」(揺れ)を起こすようになり、観測対象を正確にポインティングすることができなくなってしまった。深刻な問題に悩んでいた宇宙望遠鏡科学研究所の天文学者、エリック・チェイソン博士は、ある秘密のミーティングに呼び出された。

軍関係者との会合で、彼らは「ハッブル級のヴィークル」に知見があるといい、ジッタ問題が起きることはHST打ち上げ前から知っていたという。「だったらなぜ、もっと早く教えてくれなかったんだ!」チェイソン博士は内心で怒りを感じたが、解決法も教えてくれるということでそれを飲み込んだ。結局、運用ソフトウェアの修正などにより、HSTは目的通り観測ができるようになった。

1971年から1986年まで運用されたKH-9 ヘキサゴン衛星。衛星から撮影済みフィルムを投げ落とし、飛行機でキャッチするというフィルムリターン方式でも知られる。Credit: National Reconnaissance Office
1971年から1986年まで運用されたKH-9 ヘキサゴン衛星。衛星から撮影済みフィルムを投げ落とし、飛行機でキャッチするというフィルムリターン方式でも知られる。Credit: National Reconnaissance Office

この「ハッブル級のヴィークル(人工衛星)」とは、アメリカのスパイ衛星「KEYHOLE(キーホール)」シリーズの光学衛星「KH-9 HEXAGON(ヘキサゴン)」だ。ハッブルとヘキサゴン、どちらも光学観測を目的とした人工衛星という点では同じ。ただ、宇宙を向いているか地上を向いているかの違いだ。遠くの銀河に向けて長時間露光の必要があるHSTに対し、スパイ衛星でそうした機会はそれほど多くない。ヘキサゴン衛星の場合は1970年代からシベリアのクラスノヤルスク付近でソ連の軍事レーダーサイトを偵察する任務を負っており、赤外線で地上の一箇所を集中観測する必要が生じたことから、ジッタ問題に対する経験を積んだようだとチェイソン博士は著書で述べている。

ハッブル宇宙望遠鏡は同じキーホール系列のスパイ衛星「KH-11」と形状の相似を指摘されることが多い。それだけでなく、打ち上げ間もないHSTを救ったKH-9の運用技術のように、スパイ衛星とのつながりは深い。そもそも宇宙開発の技術は軍事と不可分の部分がある。1958年にアメリカ初の人工衛星を打ち上げたロケットは弾道ミサイルそのものであるし、GPS衛星のようにひとつの衛星システムの中に民生用と軍用、両方の機能を併せ持つデュアルユースの宇宙システムもある。

『ゼロからわかる宇宙防衛 宇宙開発とミリタリーの深~い関係』大貫剛著、2019年イカロス出版
『ゼロからわかる宇宙防衛 宇宙開発とミリタリーの深~い関係』大貫剛著、2019年イカロス出版

ゼロからわかる宇宙防衛 宇宙開発とミリタリーの深~い関係』は、こうしたミリタリーと宇宙との関係を糸口に人工衛星やロケット、軌道、通信、光学といった宇宙技術を解説している。監視対象の人物を追いつづけるスパイ衛星から宇宙戦闘機実現の可能性まで、「映画で観たあのシーンは可能なの?」という疑問にも答えてくれる。

本書を通して読むと見えてくるのは、宇宙機を縛るさまざまな制限、限界が「民生用か軍事用か」という用途の違いから来るものではなく、軌道や重量、推進剤、カメラの性能など、ほとんど物理法則や技術の制限から来るということだ。

第10講『現代の偵察衛星』には、光学衛星が雲や夜間では撮影できず、また軌道を予測して地上の偵察対象をカムフラージュされてしまうこともあるという「弱点」が解説されている。この弱点はKH-9 ヘキサゴンのようなフィルム式のスパイ衛星でも共通だ。そこで、雲やカムフラージュの下でも撮影を試みるため、ヘキサゴンには赤外線フィルムも一緒に搭載されていた。後にHSTを救うことになる赤外線撮影ミッションは、元はスパイ衛星の機能の限界を広げるために計画されたものだったのだ。

このように軍事衛星だから夢のようなことができるわけではない。そして、軍事で培った技術はそれが地上の生活や科学に役立つならば、いずれ情報公開されるべきだろう。

ハッブル宇宙望遠鏡がジッタ問題を起こすことを知っていた米軍関係者は、「民生用でも同じことが起きるのか」といわば実験台にするつもりで事態の推移を観察していたようだ、とチェイソン博士は著書で述べている。そうした思惑絡みでHSTのような科学の成果が妨げられることがないよう、宇宙の世界が軍事も科学もフラットにつながっていることを本書で知っておきたい。

サイエンスライター/翻訳者(宇宙開発)

1990年代からパソコン雑誌の編集・ライターを経てサイエンスライターへ。ロケット/人工衛星プロジェクトから宇宙探査、宇宙政策、宇宙ビジネス、NewSpace事情、宇宙開発史まで。著書に電子書籍『「はやぶさ」7年60億kmのミッション完全解説』、訳書に『ロケットガールの誕生 コンピューターになった女性たち』ほか。2023年4月より文部科学省 宇宙開発利用部会臨時委員。

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