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20年の時を超えて――ウィンブルドンでつないだ亡きノボトナの想いと教え子の誓い

内田暁フリーランスライター
左がクレイチコバ、右はジュニア時代からのパートナーのシニアコバ(写真:ロイター/アフロ)

 決勝を戦った相手と握手を交わしたその手で、彼女は自分の唇にそっと触れると、そのままウィンブルドンの青空へとかざした。

「勝利後に空に投げたキスは、やはり……あの人へと捧げたのですか?」

 試合後の会見で記者に問われると、彼女はコクリとうなずき答える。

「ええ。あなたが思い描いている人だと思います。あの勝利は、ヤナに捧げました」

 センターコートで天に手をかざした選手は、先の全仏オープンに続き、ウィンブルドンの女子ダブルスを制したバルボラ・クレイチコバ。

 その彼女が栄光を捧げた相手は、ヤナ・ノボトナ。20年前のウィンブルドン女子シングルス優勝者であり、クレイチコバの元コーチであり、そして昨年11月に、癌との闘病生活の末に世を去った故人である。

 シングルスでの戴冠は1度ながら、ノボトナの優勝は、ウィンブルドンという伝統の大会が綴る美しき叙事詩であり、多くの人々の記憶に焼き付く歴史的シーンである。

 その物語の始まりは、1993年まで遡る。この年の女子決勝でノボトナは、女王ステフィ・グラフ相手にファイナルセット・ゲームカウント4-1とリードし、勝利まで5ポイントに迫っていた。だが、優勝の可能性が碧い双眸をよぎったその時、迫る栄光の眩さに、彼女の手元は定まらなくなる。突如として連発する、ダブルフォルトやボレーミス。内側から崩壊し重圧に潰されたノボトナは、表彰式で贈呈者のケント公爵夫人に「あなたなら、いつか必ず優勝できるわ」と声を掛けられると、公爵夫人の胸に顔を埋めて、肩を細かく波打たせた。

 その「いつか」は、もう一度の準優勝の失意を越えて、5年後に訪れる。前年の決勝で敗れた相手であるマルチナ・ヒンギスを準決勝で退けたノボトナは、決勝ではストレートで勝利し、ついに頂点へと上り詰めた。表彰式で、ケント公爵婦人は両手を差し伸べ優勝者の手を固く握りしめると、その手に、金色のプレートを渡す。求め続けたプレートに軽く口付けしたノボトナは、栄光の証を高々と空に掲げた。

 それから15年後の、年の瀬が迫った12月――すでに現役を退いたノボトナのチェコ郊外の自宅に、ある訪問者たちが姿を現す。

「私は、バルボラ・クレイチコバと言います。先日18歳になったばかりです。良いテニスプレーヤーになるために、何が必要かアドバイスして頂けませんか?」

 ジュニア大会で成果をあげるも、大人への過渡期で壁に当たっていた当時の18歳は、両親と共に半ば押しかける形で母国の英雄の家を訪れると、バックヤードで会うなり切り出したという。

 突然の来訪者にノボトナも驚いただろうが、続く彼女の行動と言葉は、クレイチコバを驚かせた。

「2度の練習をした後に、ヤナは、ツアーに帯同してくれると言ったんです」

 私は常に、若いテニス選手を助けたいと思っていた。テニス界に貢献したいと思っていた。だって私は、この競技が大好きだから――新たな教え子に、ノボトナはそう伝えたという。

 師弟の歩みは残念ながら、ノボトナが体調を崩したため2016年に途絶えることになる。彼女が自宅で家族に看取られ世を去ったのは、その約1年後のことだった。

 

 ダブルスの名手でもあるノボトナの薫陶を受けたクレイチコバは、今季、ジュニア時代からのパートナーであるシニアコバとペアを組み、6月の全仏オープン、そして7月のウィンブルドンで連続優勝の栄冠をつかんだ。

「ヤナが優勝したその20年後に、ウィンブルドンで優勝できたことがとても嬉しい。彼女が成し遂げたことを、人々が思い出すきっかけにもなっただろうから……。だからダブルスではあるけれど、この優勝は最高の結果だと思います。きっと彼女も、私の優勝を誇らしく思ってくれているでしょう」

 ウィンブルドン優勝後の会見で、クレイチコバは胸を張る。

 彼女が、生前のノボトナに最後に会った時、師から掛けられた言葉は「グランドスラムで勝ちなさい」だったという。

フリーランスライター

編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスのライターに。ロサンゼルス在住時代に、テニスや総合格闘技、アメリカンフットボール等の取材を開始。2008年に帰国後はテニスを中心に取材し、テニス専門誌『スマッシュ』や、『スポーツナビ』『スポルティーバ』等のネット媒体に寄稿。その他、科学情報の取材/執筆も行う。近著に、錦織圭の幼少期から2015年全米OPまでの足跡をつづった『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)や、アスリートのパフォーマンスを神経科学(脳科学)の見地から分析する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。

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