二十歳のとき、何をしていたか?/濱家隆一 空洞のまま突き進んだ若手時代。 時おり仕事で訪れた東京は、 相方と約束を交わした勝負の地だった。
謎の自信だけが常にあった、〝イチビリ〟な大阪時代。
「どう考えても大事な1年!」。2020年、かまいたちの濱家隆一さんは、そう自らにハッパをかけてきた。大阪で名を馳せたのち『キングオブコント2017』の覇者となり、東京へと進出したのが2018年。以降『アメトーーク!』や『ロンドンハーツ』といった全国ネットのバラエティ番組の打席に立ち続け、フジモンさんにイジられ、かまいたちは瞬く間にゴールデンタイムの主砲となった。芸人ならば次こそ〝冠〟。関東初の冠番組『かまいガチ』が始まった2020年は、「大事な1年」がまさに具現化した年だった。 【取材メモ】今やプライベートでは良き夫、良きパパとなった濱家さん。心を入れ替えたきっかけを尋ねると、「完全に奥さんです」とキッパリ。 堅実な芸人人生を歩んできたような濱家さんだが、「若い頃はほんま何も考えてませんでした。ただのバカ(笑)」と苦笑い。でも、妙な自信だけはあったという。 「『ごっつええ感じ』が大好きやったんで、小さいときから芸人になるって決めてました。下調べもせず、ただお笑いといえばダウンタウンやろ、吉本やろって」 高校時代は茶髪にピアス姿で野球部の主将を務めながら、学祭で漫才のマネごとをしていた。「調子のってる〝イチビリ〟やった」というクラスのお調子者は、卒業したらNSC(吉本総合芸能学院)に入ると宣言。だが、入学金と1年間分の授業料で約40万円が必要とわかり、高校卒業後1年かけてバイトで金を貯めることに。 「でも遊び呆けてました(笑)。居酒屋バイトの先輩とカラオケして、麻雀して。普通、お笑いやるぞと思ったら劇場に通うとかネタ書くとか、あるじゃないですか。でも何もせず、『NSC入ったらすぐ売れるんやろうな』って思ってました」 ともあれ1年後にはお金も貯まり、濱家さんは野球部の後輩とコンビを組み入学。晴れてNSC大阪26期生になった。約700人の生徒がネタ見せで実力別に編成され、濱家さんは見事Aクラスに。 「でも全然おもんなかったです。当時のネタが、『新しいアンパンマンのタイトルを考えよう』『アンパンマンとニコール・キッドマン!』『ハリウッド女優と出るかあ!』。これでAクラスやったんで(笑)」 後輩とはスピード解散。濱家さんはNSC在籍中、4回の解散を経験している。 「僕、男前とばっかり組んでたんですよ。キャーキャー言われようと思って(笑)。喋ってて『うわ、おもんな!』って思うと、こいつやないんやろなってすぐ解散して」 学校には実家から通っていた。芸人の道を選んだ息子を、父親は「専門学校で手に職を付けたほうがええんちゃうか」と心配し、母親は「好きなことやり」と背中を押してくれた。同期の天竺鼠や藤崎マーケット、和牛たちと過ごす時間も楽しくて、1年はすぐに過ぎ、卒業。Aクラスの濱家さんならすぐに劇場所属?「それがね、卒業したら全員フリーになるんです。吉本所属でもなんでもなくて、劇場のオーディションを受けないと舞台に上がれない。自力で挑戦するしかない」 5番目の相方とも解散。ひとりでオーディションを観に行くと、やたら面白いピン芸人がいた。それが山内さんだった。 「すぐ『組まへん?』って電話しました。あいつずっとCクラスやって、僕がコンビ解散してCクラスに落とされたときに、『番号教えてもらっていい?』って言われたのを思い出して。あいつもコンビ組みたかったらしくて『ぜひぜひ』って感じで。それでネタ合わせしてみたら、もうめちゃくちゃ面白くてびっくりしたんですよ。それまで腹抱えて笑うなんて一度もなかったんです。漫才っぽいものを作ってただけやったんでしょうね。山内と組んで、お笑いがめっちゃおもろなって」