二十歳のとき、何をしていたか?/濱家隆一 空洞のまま突き進んだ若手時代。 時おり仕事で訪れた東京は、 相方と約束を交わした勝負の地だった。
六本木のネオンに驚いた、いつか勝負をする街、東京。
コンビ名は漢字表記の「鎌鼬」に決めた。吉本以外のインディーズライブに顔を出し、オーディションを受け続けて1年ほどたった頃、ようやく劇場入りが決まった。それが2000年代の若手芸人の拠点、今はなき「baseよしもと」だった。 「当時のトップ3組が千鳥さん、笑い飯さん、麒麟さん。怖かったです。みんなめちゃくちゃ尖ってたし、大悟さんも人相悪くて。全然喋りかけられへんかった」 劇場は実力主義のピラミッド型。頂点に鎮座するトップ組の下に入れ替え制の1軍、2軍、3軍が控えており、かまいたちは3軍からコツコツと戦った。 「調子は良かったです。『M-1』も2度目の出場から準決勝まで行けたし、結成3年目で『ABCお笑い新人グランプリ』も獲った。生意気やったと思います。俺みたいなおもろいやつそら売れるわ、賞獲るのも当たり前やんな、っていう痛ーいヤツ。本当はそんな人間やないのに、芸人はそうならないかんと思い込んで」 とろサーモンの久保田さんに可愛がられ、大悟さんとも飲みに行くように。テレビにも少しずつ出始め、24歳くらいで15万~20万円の給料がもらえるようになった。でも、そこからが長かった。
「部活の延長線みたいな感覚やったんですよね。ギャンブルして、パチンコして、酒もめちゃくちゃ飲んで。劇場に寝泊まりしてた時期もありました。その頃から会社に借金するようになって『今なんぼ借りれますか?』って限度額いっぱい借りて、バーッと使うんです。生活費じゃなく、ただ遊ぶ金。で、元金が減ったら『なんぼいけます?』ってまた借りる。なんであんなことしてたんやろ……。」 理由なき反抗を続けていた頃、たまに東京の仕事が入ることがあった。定宿は当時六本木にあった『ホテルアイビス』。 「この仕事するまで東京に来たことがなくて、初めて交差点〝ROPPONGI〟ってサインを見たときは『六本木や!』って興奮しました。怖くて遊びに行かれへんかったけど、これが東京なんやなって」 山内さんとの暗黙の了解が、「『キングオブコント』か『M–1』で優勝したら東京で勝負しよう」だった。だから、東京は憧れの地というより、絶対に来るべき約束の場所。その後、26歳で『ふくらむスクラム!!』のレギュラーが決まり東京に呼ばれるも、番組はすぐに終了。「いったんステイや」という山内さんの言葉で、再び大阪で足場を固めた。 「それまで気楽にやってきたのに、初めて『あ、ダメかも』と思って、余計にお酒に走りました。酩酊するまで飲んで、師匠の現場にも遅刻して、28歳で痛風に」 大阪の賞レースは獲れても、全国の大会に指がかからない。自堕落な生活は、コンプレックスの裏返しだったのかもしれない。そんな濱家さんを、山内さんはただ見守っていたという。 「見放してたのかも(笑)。でもあいつは優しいし、本人が気づかん限り変わらへんってタイプなんで。大人なんですよ」 29歳、『せやねん!』で千鳥の後任となり、ロケ芸人として奮闘。賞レースを次々と狙いながら、東京行きの切符を手にするまで6年の月日を要した。 「昔の話が記事になるたび、『こいつ何なん?』って思うんです(笑)。酒に溺れて、売れへんのを人のせいにして……。もっと頑張れたと思います。20代は空洞でしたね。そうやな、それがいちばんやな」