素晴らしい車両は収まるべきところに収まる|「夢のまた夢」カウンタックLP400を手に入れた、元スーパーカー少年
ランボルギーニ・カウンタック5000Sとウラッコを所有し、ランボルギーニマニア垂涎のカーライフを送っていた、かつてのスーパーカー少年。自身もこれが夢の完成形だと思っていた。スーパーカーブーム最盛期に見た“夢の中の夢”を手に入れるまでは… 【画像】収まるべきところに収まった、Mさんと運命のランボルギーニ・カウンタックLP400(写真17点) ーーーーー ●1977年3月8日、サンタアガタ・ボロネーゼ 前日までの凍えるような寒さが少しは緩んだとはいうものの、工場の始まる時間帯にはまだ気温10度と肌寒く、春というには程遠く、吐く息もまた白かった。空にはところどころ雲が広がっている。幸いにして風はない。 一台のトレーラーが工場の正門に差し掛かった。赤いクンタッチ(カウンタック)LP400が積まれている。シャシーナンバー1120242、つまりオーダー121台めで、123台めに完成したLP400だ。プロトタイプを除いてわずか149台しか生産されなかった貴重な初代クンタッチのうちの一台。 トラックの行き先はドイツだ。それゆえフロントのターンライトは無色ではなく半分がオレンジになっている。インテリアといえば触ることも憚られるような純白だった。もっともこの車両はドイツで登録されることはなかったようだ。当時はよくあったことで、オーダーした真の顧客は日本人、故にそのまま日本へと送られたという。 77年の春、日本ではかのスーパーカーブームが最盛期を迎えつつあった。 ●1977年夏、山形県 とあるギター少年は、近くのボーリング場でスーパーカーショーが開催されていることを馴染みの床屋で知った。髪を切り終え慌ててカメラを取りに家に戻って、ボーリング場へと急いだ。インターネットのない時代、情報の収集はたいてい受動的で、大事なことほど突発的に知らされた。あの日、もし少年が床屋に行かなかったとしたら?その後の彼の人生、否、“車生”は大きく変わっていたはずだ。 自転車を全速力で漕いで会場まで向かったものの着いたのはショー終了のわずか1時間前だった。あまりに時間がなさすぎる。焦りで我を失いそうになっていた彼をさらなる悲劇が襲う。なんとカメラに入っているフィルムの残りコマ数が3枚しかなかった。デジタル時代の今では考えられないことだが、これもまた当時の"あるある"。大事なときほどフィルムは足りないものだった。 少年は被写体を厳選した。撮ったモデルはデ・トマゾ・パンテーラとロータス・エスプリS1、そして青いランボルギーニ・クンタッチLP400だった。そして少年は当時すでに夢中であったギターとオーディオにスーパーカーを加えた三つの趣味に、その後半世紀にわたりのめり込むことになる。 なかでもLP400は“夢の中の夢”となった。 ●スーパーカーショーを賑わせた赤いクンタッチ ドイツ経由で日本にやってきた赤いクンタッチ(以下、242号車)は各地のスーパーカーショーで引っ張りだことなった。新車の状態でまずは当時絶大な人気を誇った伝説のウルフクンタッチ(赤)のようなリアウィングが装着され、さらにある時からフロントスポイラーやオーバーフェンダーも備わるようになった。 ホイール&タイヤは細くて70のノーマルLP400のままだったので、今にして思えばひどく不恰好だったはずなのだけれども、当時の子供達はそれでもウルフクンタッチスタイルだと喜んだ。逆にいうとオーバーフェンダーもウィングもなくタイヤも細い吊るしのLP400は格好悪いと見做されていた。あの頃はというと、ミウラをSVR(イオタ)スタイルへ改造するのと同様、クンタッチのウルフ化は定番の“イケてる”モディファイだったのだ。 ●ランボルギーニ愛をカタチにする いつかはクンタッチLP400に乗りたい。そう願っていた少年も免許を手にし、国産車を乗り継ぐ。なかでも日産車がお気に入り。30歳を超えて仕事も安定した90年代になって初めて、念願のスーパーカーを手に入れる。フェラーリ308GTBのファイバーボディだった。 ランボルギーニが大好きだというのに初めてのスーパーカーはフェラーリ、というのはこれまた当時のよくある話で、ランボルギーニに対する昔の評価のほどがうかがえるだろう。要するに乗れたもんじゃなかったし、乗れるとも思っていなかった。憧れではあるけれど、触れてはいけないどこか神聖もしくは邪悪なもの。踏み込んではいけない領域。禁忌の車でもあった。 そろそろ今回の主人公を明かしておいた方がいいだろう。山形のスーパーカーショーへ終了直前に駆け込んだ少年こそMさんで、黄色いLP400が242号車である。オドメーターは写真にある通り、依然として100km台。おそらく世界を見渡しても最もマイレージの低い、奇跡の車だ。 Mさんが242号車を手に入れるまでには、別のクンタッチ物語がある。彼が最初に手に入れたランボルギーニは、今もガレージに収まるイエローのウラッコP250Sだ。実をいうとクンタッチも所有し愛でていた。淡いブルーメタリックの5000Sである。 そして彼の真のクンタッチ愛を語るにはさらにもう“2台”のクンタッチに登場してもらわなければならない。うち1台はガレージの壁にかけられたフレームだ。これはクンタッチの初期モデルに使われていたスペースフレーム骨格で、その他のパーツが“すべて”揃えばちゃんとクンタッチになるであろう正真正銘の本物である。 5000Sとウラッコのある生活。ランボルギーニマニアが見ても垂涎のカーライフである。Mさんも大いに満足していた。けれども少年時代にボーリング場で見て人生を決めたスーパーカーといえば“カウンタック”は“カウンタック”でもLP400だった。 買うチャンスはあった。けれどもなぜか踏み切れなかった。今にして思えばその時買えなかったこともまた今日のこの宝石のようなコレクションへと至る伏線だったのかもしれない。LP400への思いは、初期型のフレームを手に入れてそのうち復元してあげるよ、というところまで熱していたのだ。 そしてもう1台は、動かないけれども“別格のクンタッチ”である。Mさんが愛してやまないオリジナル・クンタッチ、プロトタイプのLP500、原寸大(1/1)モデル(エポキシ・ウッド)だ。すべての“カウンタック”の源というべき存在である。 今からおよそ10年前。イタリアを訪れていたMさんは元ベルトーネのマリーゴ・ガリッツィオ氏(故人)と出会い、LP500の図面(マルチェッロ・ガンディーニのサイン入り)がマリーゴの手元に残されていることを知って即座に思いたった。今や誰も現物を見たことのないプロトタイプ(本物はクラッシュテストに供されて現存しない。最近になってスイス人コレクターの要望でランボルギーニ本社がこの伝説のクンタッチを復元している)を原寸大で再現してみようじゃないか… イタリアの有名カロッツェリアで一年がかりで2017年に製作された原寸大モデルは、本物のフレームや5000S、ウラッコに囲まれるようにMさんのガレージに収まった。彼のランボルギーニ愛はこれでひとつの完成形をみた、と彼自身も思ったことだろう。 ●すべては収まるべきところに帰結する 素晴らしい車両というものは必ず収まるべきところに収まるものだ。 数年前。彼の元に重大な情報が届く。超低マイレージのLP400が売りに出るかもしれない。これが最後のチャンスかもしれない。Mさんはついに“夢の中の夢”を手に入れる決心をした。そのために大好きだった青い5000Sを手放すことになってもいい… 出会いのさらに数年前。いつかは必要になるかと思って買っておいたLP400用のオリジナルバンパーが手元にあった。奇しくも242号車はウルフ仕様に改造され、バンパーの形状が異なっていた。プロトタイプに敬意を表してイエローにリペイントされた242号車にはその“シンデレラのバンパー”が今、たしかに収まっていた。 文:西川淳 写真:芳賀元昌 Words:Jun NISHIKAWA Photography:Gensho HAGA
西川 淳