上司のSNSのプロフィール画像でわかる「自己承認欲求ダダ漏れリーダー」度 薩摩藩・島津久光も欲望の塊だった⁉
小さな野心より巨大な野望
島津久光も決して無能ではなかった。それどころか知力も決断力も人並み以上で、「幕末の四賢侯」として名前が挙がるほどの人物なのですが、同時に、リアルに「こんな上司は嫌だ」と思われた経歴の持ち主でもありました。 しかも彼を嫌った部下は超大物。とびきり有能で圧倒的な人望の持ち主、西郷隆盛です。
「兄より優れた弟など存在しない」とは『北斗の拳』の登場人物、ジャギの言葉ですが、久光の不幸は、彼の兄があまりに優秀すぎたところにありました。 その兄とは島津斉彬。薩摩藩どころか、日本史上でもトップクラスに優れたリーダーで、藩政の実権を握った短い期間に、西洋のテクノロジーを取り入れ、紡績工場や造船所、兵器工場など数々の施設を建設。 鹿児島をグローバル水準の技術を持つ工業都市へと育て上げていった人物です。 それでいて人柄は温厚で、人間的なキャパも大きい。西郷隆盛は、ごくごく低い身分の武士でしたが、そうした斉彬に発見され、人材として教育されました。つまり西郷にとって斉彬は、主人であるだけではなく恩人、そして恩師でもありました。 こうした人は、その欲望もでかい。部下から見透かされるような小さな野心ではなく、歴史を揺さぶる巨大な野望の持ち主であるものです。 彼が藩主となったのは、西洋の植民地獲得競争の波が日本にも波及する時期。ペリーが黒船を率いてやってくるのは藩主となって2年後です。 天皇中心に結束するか、やはり将軍中心でいくか。開国してグローバルスタンダードにキャッチアップするか。それとも外国勢力を撃退して、ガラパゴスを維持するのか。 激動の時代のなか、斉彬はただ地元の利益だけではなく、日本の未来を考えて、幕府の政治改革に乗り出します。
しかし1858年、井伊直弼が大老に就任します。「安政の大獄」を主導して幕府アンチを摘発、後に「桜田門外の変」で殺されてしまう人ですが、いくらリーダーの斉彬が英明、薩摩が西国の雄藩だからといって、とても「お気持ち表明」だけで動く人ではありません。 斉彬は兵を率いて上洛し、その軍事的圧力で井伊を退陣させて、幕府政治を機能的な体制に刷新しようとした。事実上のクーデターですが、しかしその大計画の実行直前に、急死してしまいます。まだ49歳でした。 死因はコレラとされていますが、あまりのタイミングの妙のために「暗殺」という疑惑は、当時から根強くありました。