上司のSNSのプロフィール画像でわかる「自己承認欲求ダダ漏れリーダー」度 薩摩藩・島津久光も欲望の塊だった⁉
西郷隆盛に見透かされていた島津久光
しかし「斉彬の死に責任がある」と見られたのは久光の不運でしたが、ですがやはり、彼自身にも問題はありました。 結局、久光は兵を率いて京都に上る。そこで朝廷に運動して、幕府に対する勅使を出してもらった。久光はその護衛としてついに江戸に入ります。 そうして幕政の改革を突きつけるのですが、そのいっぽうで、薩摩藩主を息子から変更し、自分にしてもらうように働きかけていた。これには幕府サイドもあきれたそうです。 それはそうでしょう。その会社になんの役職も持たない、ただの社長の父親だというだけの人物がわざわざ東京にやってきて、親会社の取締役たちに「社長を息子から俺に替えてくれ」と陳情するようなものです。 このことを知ったとき、能力のある部下ほど「斉彬さまとくらべてなんというレベルの差だ。月とすっぽんだ」と感じ、情けなく思ったことでしょう。 斉彬はもともと西郷について「貴重な大宝だが、独立の気性が強く、自分でなければ使いこなせないだろう」と語っていたそうです。
事実、久光は西郷をコントロールすることができなかった。(久光から見れば)西郷は勝手に暴走し、坂本龍馬の仲介を経て長州藩と同盟を結ぶ。そしてとうとう幕府を倒してしまうところまで行き着くことになりました。 激動の世に乗り出して、脚光を浴びたいという欲望はあった。その中で自己実現を達成したいという野心もあった。 しかし結局、久光という人は本質的には保守家で、部下がついていきたくなるような、イノベーティブなビジョンの持ち主ではなかったということなのでしょう。 この人は亡くなるまでちょんまげを結って刀を手放さず、洋式医も近づけなかったそうです。 ちなみに明治維新後も、自分が鹿児島県令になるように運動せよと命令して西郷をあわてさせたりしたそうです。そこまでいくとこの人の承認欲求も、なかなかのビッグスケールだったといえるかもしれません。