消化器内科の常勤医から芥川賞受賞作家に。朝比奈秋「<生きるとはなんぞや>医師としての答えの出ない疑問が、膨らんで物語になる」
一方で、哲学書も少しかじっていました。というのも、昔から僕は「人間って何だろう」「死ぬとはどういうことなのか」という、答えの出ない問いを頭のなかで繰り返し考えるような子どもだったんです。だから、本当は科学技術に興味があったのではなかった。でも、そのことに気づいたのはかなり後になってのことでした。 実は、医学部に進学を決めたのは、「命とは?」「体とは?」といった疑問を持つ人が進む学部だ、と勘違いしたからなんです。大学で勉強を始めてから2、3年で、「僕は別に人体のメカニズムを知りたかったわけやない」と気づいてしまった(笑)。 とはいえ、哲学科に転部して論文を書きたいわけではなく、ほかにやりたいこともなく……。両親も、「病気や怪我はいつの時代もあるものだから、医者は食いっぱぐれのない仕事やで」と応援してくれていたので、そのまま医師免許を取得することにしました。 卒業後は、病院で働きながら自分の専門にしたい診療科を決めるのですが、手先を動かすのが好きだったので、デスクワークの多い普通の内科じゃないほうがいいと思っていました。ただ、僕は共同作業が壊滅的に苦手で。 外科はかなり体育会系の世界で、当時は新人が手術中に理不尽な理由で叱られることが多かった。そういうときに、「すみません、気をつけます!」と言ってしまえばいいものを、僕は「なんで怒られなあかんねん」とすぐに顔に出てしまうんです。それで手術室の空気がどんよりしてしまう。自分に合ってないとわかって、外科は選びませんでした。 そこで見つけたのが、消化器内科です。主な仕事は内視鏡手術で、医師一人に看護師一人の少人数で行うのが基本。手先を動かせて、自分のペースでできるものを見つけられてよかった。かなり性に合っていると思います。 卒業後は、大阪市内の病院に勤めました。数年おきに各地の病院へ移っていくサイクル。救急病院勤務だったときは、一睡もできないまま2日連続で出勤するなど、かなりハードな働き方だった時期もあります。 このときばかりは、もちろん内視鏡だけやっていればいいというわけではなく、たくさんの人の生き死にと直接かかわりました。そこで、もともと抱いていた「生きるとはなんぞや」という疑問に、真正面から向き合わざるをえなくなった。小説を書き始めたのは30代半ばのこの頃でした。
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