東京都心にカワセミが生息している。地形と都市開発を「観察」する
「絵はがきみたいな写真」と「観察」の違い
柳瀬:身近な鳥の中でカワセミが一番綺麗でかっこよくてちょっとレアで、最近では首都圏でも撮れるからというので、被写体としての人気が高いけれど、そこで止まるケースが多いような。鉄道写真やアイドル写真を撮るアマチュアの方の一部とも似ている気がしますね。 なるほど、写真という成果物が欲しいのであって、観察の対象にはしていない。 柳瀬:「望遠レンズで精細に拡大できる絵」で、「写真雑誌で見たあれ」を撮りたい、その対象がカワセミ、という感じなんですね。実際、これは違法なのですが、川の中に入っていって、コンクリートの擁壁の水抜き穴に枝を突っ込んで、そこにカワセミが止まるの待っている人とか、います。で、他人が一緒に撮ろうとすると、怒鳴り散らしたりする。 やらせをやって、絵はがきみたいな写真を撮りたいと。 柳瀬:季節ごとに、冬は椿を突っ込んで、春になると桜を突っ込んで、初夏になると紫陽花(あじさい)を……って、延々やっているわけ。そんな写真、CGでいいじゃないですか。 相変わらず口が悪い(笑)。でもそこまで言われると、「きれいな写真を撮る」というだけでは「観察」にはならないんだなとわかる。じゃ、柳瀬教授の言う「観察」とは何なんでしょうか。 柳瀬:自分の定義では、観察の対象の仲間、家族になるぐらい心理的に近くなって、その上で、いったん突き放してクールに見ることに徹する、というのが観察なんです。僕の場合だと、心理的には、カワセミの気持ちになって、カワセミの暮らしの中に分け入ってないといけないわけですよ。ただし、絶対彼らの暮らしの邪魔をしてはいけない。物理的には距離をとり、気配を消す。 本の中でも「お父さん」「息子」呼ばわりでした。そうか、土手に枝を突っ込むというのは、観察をしている人の視点からいったらありえない。 柳瀬:写真を撮ることしか考えていない人は、自分の都合でカワセミの暮らしの邪魔を始めるんですよ。まっとうな鉄道写真を撮る人からしたら、撮影のために運行の邪魔をしたり、進入禁止のエリアに突っ込んだりする人は許せないでしょう、あれと同じです。観察をするには、心では仲間になり、物理的には自分を隠さないといけない。 なるほど、そうだね、鉄道が好きなら、運行を邪魔してはいけないよね。 柳瀬:僕には鉄道というハードウエアの魅力はそこまでぴんとこないけれど、例えば、鉄道の現場の人の写真を撮るなら、「働いている姿がこんなかっこよく撮れるんだ、ありがとう」って写真を撮りたいし、撮ってほしいじゃないですか。それって、現場のことをちゃんと理解しているから、そう思ってもらえるわけですよね。 「ここでこういうことをしているのが面白い、かっこいい」と理解できるから撮れる。なるほど。 柳瀬:それが「観察」なんです。カワセミの写真で言えば、カワセミ単体だけではなくて「そこで何をしているか」を文字通り、観察して、記録する。カワセミだけを単体でひたすらどアップで撮っても、それだけでは観察にならない。 そうか。「作為なく、何をしているところかがわかる」写真ではないから、観察にならない のか。 柳瀬:そうそう。例えば、東京のカワセミの生態が面白いのは、こういうところです。 柳瀬:川に捨てられた自転車が魚礁になり、カワセミにとって格好の狩り場になっている。でもさっき言ったようなカワセミの写真を撮る人の多くは、見た目にきれいな写真が好きだから、こういうのは撮らないと思います。このハードボイルド感。『新宿鮫』ならぬ、新宿カワセミなわけですよ。 この川は豊島区だけどね。 柳瀬:「鳥の綺麗な写真」にこだわる人は、なるべく鳥そのものだけをきれいに切り取ろうとするわけです。そうすると自分の環世界の中にあるのは、この「カワセミ単体」だけになる。でも生き物って、人間も含めて単体で生きているわけじゃなくて、置かれた環境があり、他の生き物がいて、しかもそこに積み重なった歴史の中に生きているわけです。生態系=エコロジーの一部なわけです。そのエコロジーをまるごと好きになって、興味を持って、その中に入る。だけど邪魔をしないというのがたぶん観察なんですよ。 なるほど。