信長に評価された滝川一益が直面した「逆境」
■滝川一益を襲った本能寺の変という「逆境」 滝川一益(たきがわかずます)は織田家中において、関東の取次役または司令官を任される重臣であったものの、本能寺の変後の立ち回りに失敗した武将というイメージが強いかと思います。 しかし、一益は織田家の伊勢攻略で先鋒として活躍したことで頭角を表し、豊臣秀吉(とよとみひでよし)や明智光秀(あけちみつひで)のように織田家中で重きをなすようになります。石山合戦や長島一向一揆の鎮圧において水軍を使って大きな功績を挙げるなど、織田家の統一事業に大きく貢献する存在となります。 これまで順調に出世してきた一益ですが、突如訪れた本能寺の変という「逆境」を覆す事ができず、織田家中で確立していた地位を失うことになります。 ■「逆境」とは? 「逆境」とは辞書によると「思うようにならない境遇。不運な境遇」とされています。似た言い回しに「苦境」がありますが、こちらは一時的に苦しい境遇を指し、「逆境」はそれと比較して比較的長い期間に及ぶ場合に使われます。 また、現代では「ピンチ」に置き換えられて使われる事が多いと思います。ピンチこそチャンスという言葉があるように、「逆境」は好機と表裏一体とされています。一益は本能寺の変で主君信長が討死するという予期せぬ「逆境」に置かれます。 ■滝川家の事績 滝川家は近江国甲賀の国人出身と言われており、その流れから忍者という説もありますが、確かな事は不明です。一益は信長に仕えると、蟹江城を奪取し伊勢国攻略において活躍します。石山合戦や長島一向一揆では、九鬼嘉隆(くきよしたか)と共に水軍を率いて戦功を挙げています。 1574年頃には、これまでの活躍により北伊勢5郡を任されています。 その後、関東諸侯の取次の一人となり、佐久間信盛が追放されると関東方面の交渉役を引き受けることになります。 1582年の甲州征伐では信忠軍の軍監として参加し、天目山付近にて武田勝頼(たけだかつより)を破り自害させる功績をあげています。そして、関東御取次役として上野一国と信濃二郡を与えられ、北条家や上杉家および関東諸侯の抑えとなります。 この時、信長によって関東管領とされたという説もありますが、これは定かではありません。 順調に織田家で地位を確立していきましたが、同年に本能寺の変が起こると状況が一変します。