信長に評価された滝川一益が直面した「逆境」
■信長の死で突如訪れた四面楚歌 甲州征伐後、上野国には一益が入り、信濃国に森長可(もりながよし)や毛利長秀(もうりながひで)など、甲斐国に河尻秀隆(かわじりひでたか)が配され、駿河国は徳川家康(とくがわいえやす)に与えられました。ただ、背後となる信濃や甲斐は武田家の影響力を排除しきれていない状況で、足元の上野も北条家や上杉家と長く係争を繰り広げた地域であり、その影響力は色濃く残っていました。 足元や背後の支配が安定しない中、同年6月に本能寺の変が起こります。そして、信長の訃報は一益が知るのとほぼ同時期に北条家にも知られるという「逆境」に陥ります。 北条家の不穏な動きを察した一益は上野国の人心を安定させるために、敢えて信長の死を主だった国人衆にも伝え、敵の侵攻に備えます。しかし、織田家に臣従してまもない上野衆の動きは鈍く、神流川の戦いにて北条家に大敗してしまいます。 しかも、すでに森長可は信濃を放棄し、河尻秀隆は甲斐で武田遺臣との戦いで死去しており、まさに四面楚歌という状況に陥ります。 一益は態勢を整えるどころか、織田領への帰還にも苦労することになります。 ■逆境のあとの好機へ 一益は人質を有効活用しながら6月28日に織田領に帰還できたものの、同27日の清須会議に間に合わなかった事で、織田領の再配分において不利な状況に置かれてしまいます。 この「逆境」を覆すために、柴田勝家(しばたかついえ)や織田信孝(おだのぶたか)と結んで伊勢で挙兵し、失った地位と領地の回復を目指します。一益はその軍略の才能を発揮して、北伊勢を攻略し長島城で秀吉軍の足止めを図ります。 4月に勝家と信孝が自害し、家中の大勢が決まった後も、7月まで長島城を持ちこたえさせるなど、その優れた軍才を証明しています。 そして、小牧長久手の戦いが始まると、一益の才能を高く評価していた秀吉から、現場復帰を命じられ、蟹江城の攻略を任されます。一益は3千ほどの兵で蟹江城などの奪取に成功しますが、徳川家康と織田信雄(のぶかつ)の2万の兵に包囲され、再び籠城戦になります。 しかし、友軍の九鬼家が撤退してしまった事で、一益は孤立させられることになり、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの時とは違い、秀吉軍の応援を待たずに開城してしまいました。一益にとって最後の機会となりますが、名誉挽回とはなりませんでした。 一益は「逆境」を覆す事ができないまま、1586年に越前国にて死去します。 ■「逆境」を覆す難しさ 一益は本能寺の変において織田家の重臣たちの中でもかなり厳しい「逆境」に置かれました。 新たに配された上野が、織田家の本拠地ともいえる尾張や美濃から遠く、支配して間もない上に、周辺の甲斐や信濃も同じように不安定で応援を期待できない状況でした。 これらの「逆境」を覆すのは非常に難しかったと思います。 現代でも、ピンチはチャンスと前向きに捉えようとするものの、「逆境」の想像以上の厳しさに打ち負けてしまい組織を崩壊させてしまう事例は多々あります。 もし一益が上野国で地盤を固める時間的猶予がもう少し持てていれば、違った結果になっていたかもしれません。 ちなみに、一益の軍才は徳川家からも高く評価されていたようです。一益の次男一時が若くして亡くなった際に、秀忠(ひでただ)は「勇者(一益)の子孫が不幸にも早世してしまった」と言って惜しんだという逸話が残されています。 また、一益の孫にあたる一積(かずあつ)は、真田昌幸(さなだまさゆき)の娘を継室とした縁から、大坂の陣で死去した信繁(のぶしげ)の娘たちの保護を行ったと言われています。
森岡 健司