過去を想う人、現在に没頭する人、未来を見つめる人…3つのタイプの時間感覚
アンテ・フェストゥム(祭の前)
「祭の前」感覚が強い人は、未来のことを楽しみにしてワクワクしながら生きています。ただし、未知なる未来は恐怖の対象にもなりますから、ネガティブに出る場合、未来が怖くてたまらないという状態に陥ることもあります。 こうしたことを書いている私はというと、人生のほとんどを「祭の前」感覚で生きてきました。未来にはきっとよいことが待っているはずだという楽天的な見通しのなか、ワクワクした気持ちで暮らしてきたともいえるでしょう。大人になってからも「大人になったら何になろう」という期待感がいつまでも持続している感じです。「もうすっかり大人なのに」と自分でも呆れますが、日常で退屈することはまずありません。 とはいえ若い頃、人生の真ん中をワープして一気におばあさんになりたいと思ったことを今でもよく覚えています。この人生を自分は生き抜いていけるのだろうかと緊張し、未来に圧倒されていたのでしょう。だから、誰かが将来への不安を語っていると「そうだよね」って思います。何もかもが怖い。未来への恐怖ですくんでしまう。そういう時ってあるものです。 私はこの「祭の前」感覚でおおむね満足して暮らしているものの、ワクワクとお祭の準備をしているような「今」の過ごし方ばかりしていると、祭そのものを楽しむことは永遠にできない、ということにもなりかねません。だから未来に向けた「今」ばかりでなく、目の前のただそこにある「今」も享受するよう意識しています。
イントラ・フェストゥム(祭の最中)
「祭の最中」の感覚が強い人は、今を思いっきり楽しんでいる一方で、何につけ無計画ということにもなるようです。身近な人のその場限りの行動にハラハラしている人もいることでしょう。ですが、当の本人はとても満足して刹那の今を生きていたりもします。 私には、大切にする過去もなく備えるべき未来もなく、ただ刹那的に生きていた時期が3年間ほどあります。それは10代後半でした。過去からも未来からも切り離され、思い返しても、その時期だけは凪のように奇妙に時がとまっている感じです。 時間が社会的なものだとすれば、自己が社会関係から切り離されてしまえば時間感覚も崩壊します。当時の私はおそらくその崩壊を生きていたのだと思います。誰もが、過去と未来というひとつらなりの社会的な時間軸のなかで安定していられるわけではないのです。 社会的な時間から切り離されている人たちが感じているであろう今、その刹那しかない今、積み重なっていかない今、今が過去にもならず未来にも通じてゆかず今の次にも今しかこない感覚を、私はときどき思い出します。 他方で、私は長らく依存症の回復過程について調査研究をしてきましたが、回復過程では「今を生きる」ことが重視されます。未来や過去は、恐れや怒りや痛みなどの苦しみをもたらすものだから、今を生きることで、そうした苦しみを手放そうとするのです。たとえば、薬物依存からの回復支援施設であるダルクでは、「今を生きる(Just for Today)」という言葉は次のように説明されます。 これは「今日一日を精いっぱい生きる」という意味で、ダルクの合言葉です。……すでに過ぎ去ってしまって、いまさらどうにもならない過去、いったいどうなるかわからない未来に振り回されるのはやめて、今ここで、今日一日を、精いっぱい生きることができますように。そういう気持ちを表しています。 東京ダルク支援センター編、2010『「JUST FOR TODAY(今日一日)」Ⅲ』