エネルギー小国日本の選択(4) ── ABCD包囲網、石油の供給途絶と戦争
石油資源に乏しい国内事情
一方の石油は国内で少量ながら開発・生産が始まっていたが、多くを輸入に頼っていた。輸入元は1870年代以降の石油生産ブーム「オイルラッシュ」に沸くアメリカだった。ペンシルバニア州での開発競争を皮切りに、テキサス州での大規模油田の発見なども相次ぎ、アメリカの経済発展を支えた。この頃既に、車が1家に1台という社会通念が生まれていたという。 日本では戦前、常にエネルギーと戦争が密接な関係にあった。 1904年に日露戦争が勃発すると、同年非常特別税法が施行され、石油消費税が課されるようになった。膨張する軍事費を賄う目的であり、石油を製造場などから引き取る際に1ガロン(約3.8リットル)当たり3銭2厘が課税された。当時、政府が念頭に置いていた石油とは、照明用の灯油だったという。1908年には新たに石油消費税法が公布され、課税制度が整っていった。ただ、その後の照明用石油の需要減少に伴う税収減や、電気やガスが非課税だったことなどから、1923年に石油消費税は廃止された。 この間、1906年に石炭などの固形燃料を主としていた海軍が、艦艇の燃料に重油を採用して石炭と混ぜて使う「混焼」の方針を決めた。1907年に、炭油の混焼を初めて採用したのは軍艦「生駒」とされ、1915年には重油のみを燃料とする駆逐艦「浦風」も登場した。積載するスペースなどに課題があった石炭から液体の油が燃料に代わったことで、艦艇の速力や航海できる距離、時間が増し、長期戦にも適応可能となっていった。
争奪戦の様相呈す世界
20世紀の世界では各国の利害が対立する様相が色濃くなっていった。既にアフリカや南米の多くの地域がヨーロッパの植民地となり、搾取されていた。第1次世界大戦(1914~1918年)勃発を前に各国が軍備を増強。エネルギーの供給路確保も裏表の関係にあった。 その動きに出遅れ、海外の利権に乏しいドイツの危機感は強かった。資源の確保にまつわる歴史は19世紀に遡(さかのぼ)る。代表例は、フランスとの国境付近に位置し、鉄鉱石や石炭といった資源が眠るアルザス・ロレーヌ、ルール地方をめぐる争いで、第1次世界大戦でもこの地域の資源が火種となり、両国関係を深刻化させた。 ドイツはトルコ人のオスマン帝国とともに第1次世界大戦に敗れ、その利権はイギリスやフランスなど戦勝国によって分割された。特に、大規模油田の発見が相次いでいた中東をめぐっては、イギリスやフランスの思惑が複雑に絡み合い、現在に至る中東情勢混迷のもとを作ったとされている。 その後1930年代には、サウジアラビアやクウェート、イラクでの石油開発が外資主導で進み、「セブンシスターズ」と呼ばれる現代の国際石油資本の源流となる7社が登場した。すなわち、アメリカで興ったスタンダードオイルや、オランダとイギリスの合弁企業ロイヤル・ダッチ・シェル、BPにつながるアングロペルシャ石油などである。 乱高下する石油価格の不安定さや、1929年のアメリカの株価暴落が発端とされる世界恐慌を背景に、安寧の時代はさらに遠ざかっていった。各国の成長スピードに資源の開発や供給が追いつかない状況とも言え、世界は混乱を深めていく。 日本では1912~1926年の大正時代に「大正デモクラシー」と呼ばれる民主主義を重んじる思想や風潮が目立つようになり、近代国家の歩みを進めていた。ただ、エネルギー確保の面では、ドイツと同様、資源に乏しく、繁栄のためには供給源を国外に求めざるを得なかった。関東大震災や世界恐慌の煽りを受けて国内は困窮し、政府の思惑通りに成長計画が進まない中、西洋列強との競争も激しく、焦りを強めていった。