竹刀で子どもを叩き続けるのは「愛のムチ」なのか…スポーツが「暴力の温床」になってしまう根本原因
■「愛のムチ」は「無知」の表れでしかない スポーツにおける不適切な行為は、「動機」「正当化」「機会」が揃うことで発生しやすくなり、一つでも防ぐことができれば、不適切な行為の発生を抑えられる可能性が高まるという。 参照:日本スポーツ協会「NO!スポハラ」 「動機」は「勝たせたい」「勝ちたい」「勝たせなければならない」といったもので、昨今社会問題にもなっている「勝利至上主義」だ。私自身が保護者に言われた「大会に出られなくなる」といった言葉も、大なり小なりここに結びついていると思う。 これに関しては「なぜ勝利を求めるのか」をいま一度、立ち止まって考えてほしい。子どもたちが努力をして、全国大会に出たり、勝利を手にするのは本当に素晴らしいことだと思う。本人の自信にもつながるし、人生すら好転させてくれるかもしれない。 しかし、暴力や暴言で苦しい思いをしている子どもの姿に目を瞑ってまで、得たいものだろうか? そもそもスポーツや武道を、何のために習わせているのだろう? 「正当化」は行為者自身の過去の経験からの正当化、もしくは不適切な行為だと認識していないことを指す。体罰や暴言がある環境で生き残ったという成功体験や、その指導方法しか知らないがために、「体罰や暴言で子どもが成長する」という考えを持つ人がいる。 しかし、相手のためであっても暴言は暴言だ。土屋教授によれば「愛のムチは単なる知識不足の『無知』であり、トップアスリートたちの世界でも一般的な感覚の中でも、この考えはもはや常識となりつつある」という。 ■閉じた環境では「異常」が「普通」に 「機会」は第三者が見ていない当事者同士の閉鎖的な空間を指す。体育館や道場も「閉じた場所」ではあるが、これは人間関係にも言える。 私が過去に見た、スポハラや不正行為が起こっている団体は、所属メンバーが洗脳に近く非常に「閉じた」状態にあった。外部の人に相談すると「それっておかしいよ」「通報したら?」と言われるようなことでも、その団体の中では「普通」とされていることもよく聞く。 おかしいのではないか?と声を上げたら、「綺麗事だ」「正論を振りかざしている」と言われた。しかし、彼らの言う「正論」は、暴力や暴言に苦しんできた人、命まで絶った人たちの家族・友人、研究者たちが必死の思いで作り上げてきたものだ。「綺麗事」で片付けるのは、進歩に対する冒涜であるとすら思える。 スポハラを容認する親は子どもに厳しく、試合に負け、練習が苦しくて涙する子に、「頑張れ」「もっと努力しろ」と叱責することが多いように思う。子どもにそこまで求めるのであれば、大人こそ自分を変え、社会を変える努力をするべきだ。