「間違ってもA110を『ルノー』などとは呼んではいけない」|アルピーヌA110の魔力【前編】
アルピーヌA110ほど運転して心地良い親密さを感じられ、かつ、ラリーでも成功を収めてきた車は少ない。リチャード・ヘゼルタインが、WRCポルトガルのステージでレッキカーにてその実力を味わった。 【画像】時代を超えて愛され続ける傑作、アルピーヌA110(写真5点) ーーーーー クラシックカーの世界には、時代を超えて愛され続ける傑作がある。アルビースA110は、まさにそんな存在だ。かつて世界ラリー選手権のステージだった「ラゴア・アズール」と呼ばれる場所に向かうにつれ、鮮明に浮かび上がる。より平凡な「ブルーラグーン」と訳しても素敵に聞こえ、ポルトガル・リビエラほど牧歌的で分かりやすい場所は少ないかもしれない。この場所へ連れ立った相棒というか“武器”は、元ワークスのアルピーヌA110 1600Sである。 ●タイトな空間での苦楽 キャビンは実にコンパクトで「運転する」というより、まるで「着る」かのような感覚に陥る。窓から風の取り込み量は少なく、暑がりである筆者にとって車内は灼熱地獄。おまけに未燃焼ガスが車内に充満して、たびたび解脱してしまいそうになり、撮影は幾度も中断するはめになった。正直、夏にこの車の試乗は辛い。同時にラリードライバーがいかに頑健な特殊技能者であるかを示している。かつてこの車両は、実際のレースと同様、長距離のレッキにも使用されていたのだ。考えただけで身震いしてしまう。 ヘルメットをかぶったままコ・ドライバーと長時間密着するのは、さぞや、地獄のようだっただろうが、A110について言える確かなことがある。ガソリンを吐き出したり、乗員を熱で攻めてこない限り、ドライバーの魂を震わせてくれる。 A110に乗り込むたびに毎回、同じことが起こる。まずシートポジションを呪い、あらゆるものが近すぎることや、全般的な洗練性の欠如に文句を吐く。だが、いつしか受け入れ、納得し、すっかり魅了されてしまうのだ。オーナー達が集うと皆一様に…、それこそカルト教団のメンバーのような光惚とした表情を浮かべている。そして彼らはA110を知っているだけでなく、本物のスポーツカーがどういうものかを理解している。なぜなら、A110に匹敵するものは他にないのだ。 ●ジャン・レデレの哲学 間違ってもA110を「ルノー」、または「ルノー・アルピーヌ」などとは呼んではいけない。万が一そんなことをすれば、A110オーナーから罵雑言を浴びかねない。というのも、A110が活躍していた大半の期間、ルノーとは密接した関係にあったもののアルピーヌは自律したブランドであったからだ。ちょうどアバルトとフィアットの関係性と似通っている。 アルピーヌもまた、個人の閃きから生まれた車である。ジャン・レデレは自身の姿を反映した車を作った。もっとも、それは計画的というより偶然の産物でもあったが。 1922年5月に生まれた未来の自動車界の巨匠、ジャン・レデレは大学にて工学の学位を取得後、フランス・ディエップにある実家のルノー販売店に戻った。しかし、戦後間もない時期には販売する車が不足していたため、レデレと父親は生き延びるために農機具の修理に携わることを余儀なくされた。少しずつ事業は回復し、レデレはルノー4CVのチューンナップを始め、変速機はアンドレ・ジョルジュ・クロードが考案した自社製の5段型に換装していた。その成果は目覚ましく、レデレは国際舞台で賞賛を浴びることになる。 1952年にはツール・ド・フランスとリエージューローマ-リエージュでクラス優勝を果たしたほか、1952年から54年にかけてミッレミリアにおいて750ccクラスを制覇した。 レデレはすぐに立ち上げたチューニング機器製造を軌道に乗せ、やがてこの“副業”が彼を自動車メーカー設立へと導いた。ソシエテ・デ・オートモビル・アルピーヌ初の製品、A106クーペは1955年7月に登場した。それは4CVのプラットフォームをベースとし、クーペボディはジョヴァンニ・ミケロッティがデザインを手掛けた。次作のA108は、後に同社のアイデンティティとなる鍋管バックボーンフレームを備え、2年連続してパリモーターショーに出展されていた。A110がお披露目されたのは1962年末のことで、翌年から生産が始まり、1977年7月まで生産された。 ●現実主義者だったレデレ ソシエテ・デ・オートモビル・アルピーヌは、未来志向でもなければ、コリン・チャプマンのような革新的な挑戦への欲求もなかった。レデレは極めて現実主義者であり、採算ラインを常に意識してそれを熟知していた。同社の車は常にベーシックで、言うなれば“内側”から開発を進めていた。このアプローチが成功したのは、そもそもの製品が的を射ていたからだ。 A108の一部を引き継いだ発展型のA110は、A108と同様に上下のパーツから構成されたなグラスファイバー製ボディを特徴とし、それらがバックボーンフレームに接着とリベット留めで固定されていた。各ボディシェルは手作業によって組み立てられていたため、どうしてもひとつひとつが微妙に異なり決して左右対称ではなかった。そんな妥協も、採算を意識してのこと。 足回りは、同時期にデビューしたばかりのルノー8のものを流用し、前輪には不等長ウィッシュボーンとアンチロールバー、後輪にはスイングアクスルを採用し、前後にコイルスプリングを用いた。同様に4輪ディスクブレーキ機構とラック・アンド・ピニオン式ステアリングもルノー8から流用された。 当初のA110ツール・ド・フランス・ベルリネッタは、当時のルノー最新だった956ccの4気筒エンジンを搭載し、4段マニュアルトランスミッションと組み合わされていた。その後、ルノー8マジョールに搭載された1108ccエンジンが続いた。その後も、ルノーのエンジンラインナップがルノー12やルノー16へと進化するたびに、A110が搭載する4気筒エンジンも変わっていった。 1967年、ルノーはロータスにエンジンの供給を開始した。チャプマンの「ヨーロッパのための車」である"ヨーロッパ”向けに1470ccユニットを提供したのである。これはおそらくレデレの癇に触ったであろうが、同年に彼がルノーと結んだ契約のおかげで問題にはならなかった。ルノーの広大なディーラーネットワークを通じてアルピーヌが販売されることになったからだ。 こうしてルノーのダイヤモンド型のバッジがA110のノーズに装着されることとなったとともに、徐々にではあったがルノーがアルピーヌのモータースポーツ活動への資金援助も行った。もっともアルピーヌの活躍を最大限有効活用したものルノーである。アルピーヌのロゴに比べて不釣り合いなほど大きなルノーのロゴを用いた派手な広告で、アルピーヌの戦果を謳った。 ・・・後編へ続く。 編集翻訳:古賀費司(自動車王国) Transcreation: Takashi KOGA (carkingdom) Words: Richard Heseltine Photography:Luis Duarte
古賀貴司 (自動車王国)