日本の近代住宅の“原型”を築いたモダニズムの傑作。土浦亀城邸が一般公開〈前編〉
1935年に建てられた住宅が、約90年の時を経て移築、復原され、このほど一般に公開される。今でも色褪せない理由を探った 【土浦亀城邸】タイル貼りの浴室、システムキッチンの先駆けなど(写真)
土浦亀城邸は、戦前に米国で暮らした建築家の土浦亀城と信子夫妻が、その便利で機能的な住空間を、日本でも浸透させるための実験台として、自らが被験者となって1935年に目黒に建てた自邸だ。90年ほどを経て、ポーラ青山ビルディング敷地内に移築、復原され、9月から一般への公開が始まる。
1897年、水戸藩士の家系に生まれた土浦は、東京帝国大学工学部建築学科在学中に、帝国ホテルの設計現場に関わったことがきっかけとなり、1923年からフランク・ロイド・ライトのもとで学ぶために渡米する。そこで米国の便利で先進的な暮らしを体得した。 明治以降、西洋化が進んだといっても、日本の住空間は引き戸の玄関に、畳敷の和室、ふすまで部屋を区切る間取り配置が一般的だった時代。そんな時代に土浦の自邸は、白く四角い箱のような住宅だった。近隣は木造建築ばかりの中、土浦邸は真っ白で家とは思えない異彩を放ち、建てられた当時から一般メディアである「朝日新聞」や「婦人之友」の取材を受けている。土浦が思い描いたのは保守的な家父長制度のもと暮らす大家族のためではなく、若いサラリーマン家族のための、これからの暮らしを提案する住宅だった。
延べ床面積はおよそ116平方メートル。地下1階、地上2階建ての白い箱は、居間を家の中心に据え、2層吹き抜けという開放的な空間が特徴だ。目黒の敷地の傾斜に合わせるように、床に段差を設けた間取りが特徴で、エントランスから右手に7段階段を上がると天井高が4.5mの居間が広がる。さらに居間から9段の階段を上ると中二階に出る。この中二階はエントランスの真上にあり、そこから5段上がるとロフトのような寝室へと、1階分に満たない半階段がそこかしこに設けられ、小部屋が相互に貫入するような構成によって、地上2階建てであるものの、それ以上の空間の豊かさを生み出している。と同時に、大部分を占める居間を2層吹き抜け空間にすることで、家全体がワンルームのように一体化した間取りになっている。 これについて、土浦邸を訪れ、土浦亀城本人に取材した建築史家の藤森照信は次のように説明する。 「土浦さんが最も実現したかったのが空間の一体化でした。それはフランク・ロイド・ライトの建築に学んだところが多いと思います。そしてそのライトは、仕切られていた部屋も襖を開ければ一体化する、日本の伝統的な家屋の間取りに影響を受けていたのです」