ジョナ・ヤノが語る、「ヘヴィ・ループ」の意味、フィッシュマンズから受けた衝撃
世界有数のジャズ・フェスティバルでも知られるカナダの街、モントリオールを拠点に活動するアーティスト、ジョナ・ヤノ。広島で生まれ、その後、バンクーバーからトロントへ拠点を移しながら独自の音楽性を築き上げてきた注目のミュージシャンである。 【写真を見る】ジョナ・ヤノ、撮り下ろし バッドバッドノットグッドやジャック・グリーンらとの共作を経て、2020年に1stアルバム『souvenir』をリリース。ジャズやヒップホップ、R&B的なアプローチを実験的な手法でサウンドに落とし込む独特の感性で着実に国内外で人気を集めながら、2024年10月に最新アルバム『Jonah Yano & The Heavy Loop』を発表した。30分にも及ぶインプロヴィゼーション楽曲「The Heavy Loop」は、ジョナの新たな名刺代わりとなる一曲でもある。ミュージシャンとしては二度目となる来日(いや、帰国と言うべきか)に合わせて、彼のバックグラウンドからインピロビゼーションの重要性、作品やバンドメンバーに通底するアイデアなどを語ってもらった。 ―また日本に来てきてくれて嬉しいです。 僕もです。日本に来ると毎回”帰ってきた“という感じもあるし、自分のアイデンティティにより深く触れることができるような感じもある。例えば、日本で食事をしていると「子供のころに同じようなものを食べたな」と思い出すこともあるんです。だから、日本に来るのが毎回楽しみ。今回は何を食べたっけ……? 中目黒で「おにやんま」のうどんを食べました。エビと鶏の天ぷらと、生の生姜のすりおろしも入っていて、それがとてもよかった(笑)。 ―生まれたのは日本で、そこからカナダに移住したのですよね? 広島で生まれて、4歳の時にカナダへ引っ越しました。広島では、郊外の東広島市に住んでいたんです。近所の地図を書けるくらい、当時の家のことを色々と覚えてます。ウサギを二匹飼っていて、近所の友達を訪ねて遊んでいました。そのあと、母親と一緒にカナダのバンクーバーに。バンクーバーには母方の祖父母がいたんです。僕の母もハーフ・ジャパニーズで、僕のおじいちゃんは日本人。家では「やかましい」とか「危ない」とか、日本語を使っていました。だから、僕はカナダに住みながらも日本のカルチャーに囲まれて育ったし、特に食事の面で自分の“ジャパニーズネス(日本人らしさ)”を培ったと思います。年に一度、魚市場に行ってマグロを買い付けて、家で解体パーティーをやることもあったし、そういうところは日本のカルチャーに根付いていた(家族の)習慣だったなと思いますね。 ―音楽的なバックグラウンドを教えてください。小さい頃から楽器にも親しんでいた? 5歳くらいの時におばあちゃんにピアノを習い始めて、11歳の頃には自然とギターを弾き始めました。エリクソン先生っていう学校の先生がいたんですけど、彼がとってもクールで、それがきっかけで「僕も音楽をやりたい」と思うようになったんです。歌うことに興味が向くようになったのはその後で、実際に歌ってみたら「まあまあイケるな」と思って。 ―当時はどんなアーティストを聞いていましたか? リンキン・パークが大好きで、他にはジャック・ジョンソンとか。ギターを弾くようになってからはジミ・ヘンドリクスとかスティーヴィー・レイ・ヴォーンを聴いていました。 ―最初に自作の曲をレコーディングしたのはいつ? うーん、多分、2017年かな? ギターで弾き語りして、携帯電話のボイスメモを使って録った曲をSoundCloudにアップして。最初の挑戦だったからめちゃくちゃ上出来というわけじゃなかったけど、友達や家族がその曲を聴いて「いいね」と言ってくれて、最初の一歩にしてはいい感じだったと思います。 ―それからどんな風に、自分のスキルを磨いたりアーティストとしてのアイデンティティを形成していったりしたのでしょうか。 時間とともに……という感じだと思います。最初はおばあちゃんに習ったピアノだったりギターだったりしましたけど、アーティストになるにつれて、より周りの人からの影響を受けるようになりました。尊敬するミュージシャンたちやコラボレーションする友人たちの演奏が相互作用しあって、実践的な意味での自分の音楽性が出来上がってきたように思います。2016年にトロントへ引っ越したんですけど、トロントの音楽シーンも関係していると思う。 ―バンクーバーと、当時のトロントの音楽シーンを比較するとどんな感じですか? 広島と東京みたいな感じかな。バンクーバーはもちろんとても美しい街なんだけど、トロントにはもっとカルチャーがあるというか。素晴らしいアーティストも多いし。そもそも、トロントに移った時は本気で音楽をやろうとは思っていなかったんです。もともとギターを弾いて友達とジャムったりするのは好きだったけど、ただ趣味でやっているという感じだった。