「2人の妻」には感謝しかない 著作で赤裸々に「夫婦生活」の大切さを説く 話の肖像画 ジャーナリスト・田原総一朗<29>
《田原さんは「2人の妻」を持った。最初の妻は、いとこの末子(すえこ)さん。乳がんで亡くなった後に再婚したのが、民放の元アナウンサー、節子(せつこ)さん。くしくも同じく乳がんになって、先立たれてしまう》 前にも、少し話したでしょ。最初の奥さん(末子さん)は3つ年上で「お姉さん」みたいな存在。何でも相談し、すっかり信頼していました。 でも、僕が東京12チャンネル(現テレビ東京)を退社する前後かな。乳がんが分かった。そんな状況になりながら、会社を辞めることに彼女が反対しなかったことも話したと思う。闘病の末に亡くなったときは、まだ54歳(昭和58年死去)でした。早過ぎますよ。 実はね、そのときにはもう(後に再婚する)2番目の彼女(節子さん)と不倫関係にあった。彼女とは、民放の仕事を一緒にするようになって知り合った。彼女にも家庭があったから、いわゆる「W不倫」かな。そのことについては、末子に申しわけなかったと思う。 (末子さんが)亡くなってからは、僕が2人の娘たちの朝ごはんをつくったり、仕事のかたわら家事をやったり。ときには仕事の対談場所のレストランなどに娘たちを呼んで、ついでにご飯を食べさせたりも。まぁ、映画の『クレイマー、クレイマー』(※1979年公開の米映画。ダスティン・ホフマン演じる離婚した夫がなれない子育てや家事に奮闘する)みたい、といえば、ちょっとカッコ良過ぎるかなぁ(苦笑)。 《末子さんが亡くなってから6年後の平成元年、夫と離婚していた節子さんと再婚》 アナウンサー時代の彼女はウーマンリブの闘士みたい。仕事についてもよく意見を闘わせた。僕が(12チャンネル時代に)つくった番組について冷静な批評をしてくれたり、フリーのジャーナリストになって僕が病気(自律神経失調症)になったときは、執筆作業をサポートしてくれたり。 へんな話、「夫婦生活」も最初の奥さんは年上だったからどこか遠慮があったけど、(節子さんは)年下だからラクだった気がするな。とにかく、公私ともにかけがえのないパートナーになっていったわけ。 《ところが、節子さんにも病魔は襲いかかってきた。乳がんの中でも、治療が極めて難しいタイプだった。田原さんの献身的な看病が始まる》