【光る君へ】『枕草子』に幸福な時を閉じ込めた清少納言 中宮定子を敬愛し続けた才女の想いとは?
NHK大河ドラマ『光る君へ』では、還俗した定子(演:高畑充希)と一条天皇(演:塩野瑛久)の危うい関係性と、不安定な朝廷が描かれている。一方で、清少納言(演:ファーストサマーウイカ)が主である定子に向けるひたむきな崇敬が眩しい。彼女が残した『枕草子』には、かつて満ち足りた幸福のなかにあった定子の理想的な姿や、華やかで知的なサロンの様子が描かれている。今回はそんな清少納言の生涯を追ってみよう。 ■心から慕う定子の幸福な時を書き残す 清少納言は、2番目の勅撰和歌集『後撰和歌集』の編者で、著名な歌人である清原元輔の娘でした。母の出自は、よくわかっていません。この時代の他の宮仕え女房たちと同じく、清少納言も本名や生没年をはじめ、わかっていないことのほうが多いのです。しかし私達は清少納言のことをよく知っています。『枕草子』や『清少納言集』(清少納言が詠んだ歌を集めた家(歌)集)などが残されているからです。それは、まさに文学の力であると言えるでしょう。 一条天皇は11歳の時に、藤原道隆の娘定子を后としました。その後、定子が天皇の寵愛を独占したのは前回の配信で紹介したとおりです。定子の許に仕えていたのが清少納言でした。初出仕のときは緊張のあまり、定子の美しい手しか見られなかった清少納言でしたが、その後、宮仕えに慣れ、男性貴族達と漢籍の教養などを元に丁々発止と渡り合いました。その辺りのことは『枕草子』に詳しく書きとどめられています。 定子の兄弟である藤原伊周、隆家や藤原斉信、藤原行成、藤原公任、源俊賢(斉信、行成、公任、俊賢の4人は一条朝の四納言といわれ、秀才を歌われました)、源経房ら、綺羅星のような貴公子たちは、定子サロンを訪れ、清少納言とやりとりをしました。打てば響くような清少納言の応対は、機知があふれ、大変魅力的です。一方で、清少納言の機知に、称賛を惜しまない男性貴族や周囲の女房の様子が『枕草子』に大げさに感じられるほど記されていることから、清少納言は自画自賛が多い、『枕草子』は自慢話集だといった否定的な見方があります。 しかし、この時代の女房への称賛は事実上、そのような活躍の場を与えている主人への称賛でもあり、その見方は当たらないでしょう。女房の管理は主人の責任とされていましたが、同様に、女房への称賛は主人への称賛であったのです。『枕草子』に描かれた定子は美しく、おおらかでやさしさに満ち溢れています。よく知られているように、『枕草子』は、長徳の変以降の、定子が没落した状況を書きません。『枕草子』は、あくまでも定子のすばらしさ、翳りのない理想的な姿を描き続けています。 定子が「少納言よ。香炉峰の雪はいかがかしら」と尋ねたところ、清少納言は格子を上げさせて、御簾を高く巻き上げた。 この『枕草子』に記された有名なエピソードは、白居易の漢詩の一節「遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き 香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る」を踏まえたパフォーマンスでした。直接ことばで漢詩の一節を答えるのではなく、行動で示したところが意表を突いていて、スマートでもあったのでしょう。それを見て、定子はお笑いになりました。その笑いとは、清少納言の振る舞いに、我が意を得たり、という満足の笑いでした。そもそも定子の問いが清少納言のこのような回答を導いたわけで、主従の連携プレーの趣があります。定子も白居易の漢詩をよく知っていたので、このやりとりが可能になったのです。定子の笑いをもって、このコンビネーションは完結したと言ってよいでしょう。 このエピソードは、一連のやりとりを見た他の女房が「この中宮定子に仕える女房はこうあるべきなのでしょう」と述べたということばで終わっています。これも自慢というわけではありません。主人の意図を汲んで、ただちに機知に富んだ回答を示すという、打てば響くような即興性、いわば「機知の瞬発力」を定子のサロンは重んじていたことがわかります。清少納言の漢詩文の教養に裏付けられた機知も、もちろん清少納言の個性が発揮されていますが、主人定子の統率する気風の中にありました。定子のサロンは母である高階貴子ゆずりの漢籍の教養を自由に発揮できる開明的なサロンだったのです。 『枕草子』は跋文に拠ると、中宮定子から清少納言に下賜された美しい高級な紙に書かれたようです。そうだとすると、『枕草子』は定子の命によって書かれたのと等しいこととなります。定子がスポンサーというわけです。『枕草子』は、定子サロンの公的な作品としての性格も持ち合わせているのでしょう。 ところで、定子サロンで清少納言が活躍していたころ、中宮職という中宮に関わる事務を司った役所の長官(中宮大夫)は他ならぬ藤原道長でした。『枕草子』の存在も定子に近侍する道長は知っていたのではないでしょうか。このような文才ある清少納言を配下に持ち、一世を風靡していた定子のサロンをかつて間近に見ていた道長が、娘彰子の許に清少納言に対抗し得る女房を迎えようと思ったことは十分推定されるでしょう。 紫式部を迎えた時点で、定子は亡くなっておよそ5年経ち、彰子は中宮という后の第一の座にあったとはいえ、懐妊の兆候はありませんでした。そのような中で、彰子配下の女房集団への梃入れのために、清少納言のような役割を期待されて紫式部の出仕が求められたのでしょう。そして『枕草子』に対比されるのは、出仕以前から書き始められていた『源氏物語』となり、紫式部の招聘は、単なる一女房の出仕ではなかったと考えられます。こうした事情が紫式部の心に、清少納言への強い意識を植え付けたのでしょう。あの『紫式部日記』に書かれた清少納言批判は、清少納言を目の上のたんこぶのように感じていた思いのあらわれであり、実はそれだけ紫式部は清少納言の存在の大きさを痛感していたのではないでしょうか(加えて、紫式部が父為時ゆずりの漢籍の教養に恵まれていたことも、清少納言への過剰な意識に繋がっていたことでしょう)。 清少納言は定子の死とともに、宮中を離れ、定子の陵(みささぎ)の近く、月の輪に隠棲し、定子の菩提を弔ったと言われています。一方で、定子の遺児・脩(修)子内親王らに仕えたとする説もあり、晩年の動向はつまびらかではありません。 <参考文献> 福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)
福家俊幸