政治化した平昌五輪―スポーツと帝国・資本主義、東京五輪が取り戻すべきもの
ギリシャ・ローマ・ヨーロッパ・アメリカ
もっと歴史をさかのぼろう。 オリンピックの起源は、古代ギリシャのオリンピアの祭典であり、いわば神事であった。それが次第にスポーツ化したのは、ギリシャ文明の科学性であろう。人間を個人として扱い、その身体能力を競い、計測し、記録する。人間を神が創ったものとして神秘化する宗教思想からは遠いものだ。スポーツの振興と科学的世界観には密接なつながりがある。 古代オリンピックの競技種目は主として陸上競技である。槍投げ、円盤投げ、砲丸投げなどもこのころからあり、これは戦争の技術と力を意味する。つまり命がけの戦いをしなくても、もし戦ったらどちらが強いのか判断できる効用があったのだ。四年に一度というのはその関係かもしれない。 19世紀ヨーロッパでピエール・ド・クーベルタンが近代オリンピックを提唱したのは、そういったギリシャ的な精神「科学的普遍性と戦争の回避」を目的としていたに違いない。 さて古代オリンピックには周辺国も参加し、ローマも参加したというが、そのローマが帝国化すると、スポーツは「ショー化」した。 征服によって拡大したローマ帝国の市民は実態としては貴族であり、有閑階級であり、食料と見世物は皇帝が無料で提供した。「パンとサーカスの政治」と呼ばれる。映画『ベンハー』で有名な戦車競争、『スパルタカス』『グラディエイター』で有名な剣闘士試合、時には模擬海戦など、奴隷を使って戦争をショー化したのだ。(拙著『ローマと長安』講談社現代新書・参照) そういったものは現代アメリカの、カーレース、ボクシング、アメリカンフットボールなどを彷彿とさせる。もちろん古代の奴隷に比べれば現代のアスリートは富と名声に恵まれているが、肉体を酷使して見世物にするという点では似たところがあるのかもしれない。アメリカはついこのあいだまで奴隷制社会であった。 そう考えてみると、近現代社会は、古代におけるギリシャからローマへの変化を追っているように見える。