政治化した平昌五輪―スポーツと帝国・資本主義、東京五輪が取り戻すべきもの
ネット社会のスポーツ
以上のように、スポーツと社会との関係は、時代とともに変化する。 前にこのサイトに書いた「個室の大衆」を主体とする「ネット社会」では、「茶の間の大衆」を主体とした「テレビ社会」と比べ、精神的な帰属性が、地域や家族といった固定的な集団から、嗜好によって形成される可変的な集団へと変化する。つまり自己が帰属する集団に応じてチームや選手を応援するというより、特定のチームや選手を応援する集団が形成されるのだ。 また幼少期からコンピューターゲームに親しんだ世代は、リアルのアスリートもゲームの中のキャラクターのように感じて自己投入するのではないか。そこにはほとんど努力を必要としない達成感が求められている。 かつてマンガの中のスポーツものが「根性」という言葉とともに語られたのは、その世代に根性が求められたからである。しかし現在はむしろ「科学」による体調管理とトレーニングが重視される。人体を機械化するサイボーグの技術も発達する。ドーピング対策が発達すればそれをすり抜ける方策も発達するだろう。 チェスや将棋や囲碁において人間がAIに勝てなくなっているように、スポーツの戦略にAIが取り入れられる日は近い。音楽に初音ミクというバーチャルなアイドルが登場したように、個性をもったバーチャルなアスリートが登場して人気を得る可能性もある。 スポーツと科学技術の関係をつうじて、人間とは何か、という根源的な問いにぶつかる。
誇りと友情・「もののふ」の国のオリンピック
スポーツとは、人間の闘争本能をゲーム化したものだ。英語の「ゲーム」は「獲物」も意味する。つまり闘争やゲームは、狩猟時代からの人間の本能なのだ。強者は常にヒーローであり、人々はそのヒーローに憧れる。 そしてもちろんそれは戦争と紙一重である。戦争のプロパガンダとして利用される場合もあるし、戦争回避の国際親善に活用される場合もある。「重要なのは勝つことではなく参加することである」というクーベルタンの言葉が、今更のように心に染みる。 来たる東京2020では、メダルの数を競うのではなく、国境・人種・宗教・思想を超えた「誇りと友情」をもって、オリンピック・パラリンピック本来の意義を取り戻したいものだ。それこそが「もののふ」の国のオリンピックというものだろう。 「やまとだましひ」とは、人間の本源に帰る精神である。