武田信玄でも真田幸村でも島津義弘でもない…歴史評論家が「戦国最強」と考える九州生まれの武将の名前
戦国時代で最強の武将はだれか。歴史評論家の香原斗志さんは「九州の武将、立花宗茂だろう。彼の数奇な人生をみれば、武功に優れているだけでなく、知略、教養のレベルも非常に高かったことがわかる」という――。 【写真】加藤清正ですら死を覚悟したこの戦いでも大活躍 ■「戦国最強武将」の意外なキャリア 戦国最強の武将はだれだったのか。人生のある時期にかぎらず、生涯にわたり最強と呼ぶべき力を発揮し続け、さらには子々孫々まで繫栄させることができたのは、立花宗茂(むねしげ)を措いてほかにいない。 しかも、あの関ケ原合戦で西軍に与し、いちどは改易されながら、である。だが、知名度では必ずしも全国区の武将とはいえないので、生い立ちからざっと紹介していきたい。 生年には2説あるが、有力なのは永禄10年(1567)説で、大友義鎮(よししげ)(宗麟)の重臣だった吉弘鎮理(のちの高橋紹運(じょううん))の嫡男として、豊後国(大分県)の筧城(豊後高田市)に生まれたとされる。幼名は千熊丸で、反乱を起こして討伐された高橋家の名跡を父が継いだため、高橋家の跡取りとして育てられるが、結局、他家に出ることになる。 幼少期から剣術にも弓術にもすぐれ、初陣とされる石坂合戦において、父とは別に軍勢を率いて奮戦し、敵で勇将として鳴らした堀江備前を射たという名高い逸話がある。そういう宗茂(そう名乗るのは後年だが、混乱を避けるために最初から宗茂で統一する)を見て、養子に迎えたいと申し入れてきた人物がいた。紹運とともに大友家の猛将として知られた戸次(立花)道雪であった。 紹運は躊躇しながらも、高齢で男子に恵まれていない道雪のたっての願いを聞き入れ、天正9年(1581)8月、宗茂は道雪の養嗣子になった。
■東の本多忠勝、西の立花宗茂 宗茂の名がとどろいたのは、天正14年(1586)の島津氏との合戦においてだった。押し寄せる島津勢は筑前国(福岡県)の岩屋城(太宰府市)を攻め、実父の紹運以下、城兵をことごとく戦死させた。さらに紹運の次男(宗茂の弟)の直次が守る宝満城(太宰府市)も落城させた。 島津勢はいよいよ、宗茂が拠る立花山城(福岡市東区)の包囲を開始するが、宗茂は交渉の末に島津勢にいったん撤兵させると、島津方の高鳥居城(福岡県笹栗町)を攻めて激戦の末に落城させ、さらに岩屋城と宝満城も奪回した。とりわけ高鳥居城攻めに関し、のちに豊臣秀吉から「九州之一物(九州でもっともすぐれている者)」と激賞されている。 また、これを機に秀吉は宗茂を、直臣に迎え入れることにしたようで、九州征伐では島津攻めの先鋒を命じられ、竹迫城(熊本県合志市)、宇土城(同宇土市)、出水城(鹿児島県出水市)、大口城(鹿児島県伊佐市)といった諸城を次々と落とした。こうした功によって筑後(福岡県南部)に13万2000石の領土をあたえられる。以後は居城の柳川城(福岡県柳川市)と上方のあいだを、頻繁に往来する生活を送るようになった。 天正18年(1590)小田原征伐に際しては、秀吉が諸将の前で宗茂のことを「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と紹介したという逸話も残されている。 ■朝鮮出兵での無双の働き 朝鮮出兵での働きも際立ったと伝わる。文禄の役では、たとえば文禄2年(1593)1月、漢城(現在の韓国ソウル特別市)をめざして南下する李如松(り・じょうしょう)率いる明軍を迎撃して打ち破った碧蹄館(へきていかん)の戦いで、先鋒を務めて奮戦し、みずから馬を駆って敵を討ち取り勝利に貢献した。 帰国後、秀吉から伏見城下に屋敷地をあたえられ、聚楽第にあった狩野永徳や長谷川等伯らの障壁画で飾られた御殿まで拝領したという。秀吉から最高レベルの評価を受けたということである。 慶長の役でふたたび渡海すると、蔚山(うるさん)城の戦いなどで戦功を上げ、とりわけ、その折の般丹(はんたん)の戦いでは、わずか800の兵を率いて明軍2万2000の兵を夜襲し、700の首級を挙げたとされる。こうした戦功は、包囲されて危機にあった加藤清正も激賞したという。 だが、慶長3年(1598)8月に秀吉が没し、帰還命令を受けて日本に戻ってから、この無敵の武将も道を誤る。前述のように、関ケ原合戦で西軍に与したのである。