政治化した平昌五輪―スポーツと帝国・資本主義、東京五輪が取り戻すべきもの
スポーツ資本主義の時代
2015年、FIFAの幹部が多数拘束され、その腐敗ぶりが報道された。情報のグローバリズムとともに、サッカーの国際的人気が急上昇し、ワールドカップ招致などをめぐって大金が動くようになったからである。 日本では、ワールドカップで優勝した“なでしこジャパン”の選手がコンビニなどで働きながら練習を続けているのに対し、出場するのがやっとの男子チームの選手は桁違いの収入があるという「サッカー男女格差」が話題になった。 社会主義なら、国威発揚という功績で、平等の(とはいえ政治的に左右され必ずしも公平とはいえない)報酬があるだろうが、資本主義では、入場料、メディア報道料、コマーシャル料など、「人気」がそのまま金銭に反映され、それが大きな格差を生むのだ。 日本のプロ・スポーツとして、サッカーよりも歴史が長いのは野球である。一時は圧倒的な人気を誇り、鉄道系のスポンサーが多かったが、現在はネット系が多い。交通インフラと情報インフラという、いずれも「都市化」のツールとして共通するところがあるのかもしれない。しかもチームはフランチャイズで特定の都市に結びついている。サッカーやアメリカンフットボールもそうだが、20世紀における急速な「都市化社会」と、スポーツのプロ化、ショー化との関係が強いことを感じさせる。 また、大晦日が紅白歌合戦なら、正月は箱根駅伝であるが、日本社会の歳時記的伝統となった駅伝で勝つことも大学の宣伝として絶大な効果があるようだ。野球の六大学に入っていればすでに有名であるが、そうでない大学はここぞとばかりに力を入れている。 それとは別に東海大学や中京大学は、スポーツ全般で人気を高めようとしている。私立大学にとっては受験期の「18歳人気」が生命線であり、実際にスポーツの強さが、大学の経営基盤の強さとなっているのだ。 いずれにしろ、現代のスポーツは、コマーシャリズムと密接に結びついており、そこに動く金額も巨大で、もはや「スポーツ資本主義」ともいえる状況である。『マネーボール』というアメリカ映画は、現代の野球チームが、いかに金銭で運営されているかを物語っていた。