政治化した平昌五輪―スポーツと帝国・資本主義、東京五輪が取り戻すべきもの
世界のルールは帝国がつくる
サッカーのルールは比較的単純であるが、野球やラグビーのルールはなかなか複雑で、誰がこんなスポーツをつくったのだろうと思うことがある。 考えてみると、オリンピックに取り上げられるような「世界化したスポーツ」には、二種類がある。 一つは、陸上競技や水泳のように、基礎的な体力を競う個人的なスポーツであり、もう一つは、サッカー、ラグビー、ホッケー、ポロ、クリケット、野球、バレーボール、バスケットボールなど、組織化されたチームによる球技である。 前者は、昔からどこの国にも存在するが、特に古代ギリシャのオリンピックで普遍的な競技となった。後者は、その起源は古いとしても、ルールが確立されたのは近代になってからで、ほとんどがイギリスとアメリカを家元とする。 18、9世紀、七つの海を支配した大英帝国は、英語、背広にネクタイ、そしてスポーツを世界に広げたのだ。「言語・正装・競技」の世界ルールを決める、それこそが「帝国」たる所以であろう。20世紀、これをアメリカが受け継いだ。つまり文化論的には、この二つの国を「英米帝国」として一体的にとらえるべきではないか。その支配は今も続いている。 世界には未だ明確なルールが存在しない。国連や国際法はそれぞれの国の政府や法律ほど確たるものではない。帝国についての定義にはいくつかあるが、つまりそこに共通ルールをつくる国家であろう。 たとえばワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に登場する国は、メキシコ、キューバなどの中米、日本、韓国、台湾などの極東アジア、いわばアメリカ帝国文化圏である。逆に、ヨーロッパとともに南米でサッカー人気が高いのは、植民地時代のスペイン帝国の影響である。またラグビーが強いのも、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカなど、南半球の大英帝国圏である。 こういった西欧による海洋帝国主義に対して、ロシア及び東欧諸国は、ギリシャ以来の基本的な陸上競技に力を入れているが、それはもともとギリシャ正教系の文化圏であることにもよる。 スポーツと帝国主義とその文化圏には、明瞭な相関関係があるのだ。 日本から広がったスポーツとしては柔道があり、ボクシングやレスリングに並ぶ実戦的な格闘技としても世界的に評価されている。空手や相撲も国際化しているが、柔道に比べると限界がある。しかしそれだけでも、英米以外の国としては誇るべきだろう。