「デジタル田園都市」構想における政治思想と都市思想の源流
田園は田舎ではない
日本人にとって「田園」という感覚が一般的になったのは、国木田独歩の『武蔵野』(1901年刊)からであろう。 独歩はこれを二葉亭四迷が訳したロシアの文豪ツルゲーネフの影響から書き起こしている。そのイメージは、かつての、人里離れた恐ろしい山中とも、都会から離れた古い因習の村落とも異なって、ロシアやイギリスやドイツといった北ヨーロッパの森林につうじるハイカラな感覚をともなっていた。おもしろいもので、文明開化によって都市が西洋化すると同時に、自然へのまなざしもまた西洋化するのだ。当時の武蔵野は、現在では都会化した渋谷、目黒あたりからはじまるのだが、時とともに文人や芸術家が多く住み、東京の新しい文化(多分に西洋の影響を受けた)は西に向かって発展した。 また音楽ファンにとって「田園」という言葉はベートーヴェンとブラームスを連想させ、ヨーロッパの中では日本に似たドイツ、オーストリアの森林の風土を感じさせる。この音楽のイメージが、「田園」という言葉に、それまでの農村、山奥、田舎とは性格の異なった新しい意味を与えたのである。(拙著『建築家と小説家 近代文学のすまい』彰国社2013年刊・参照)
ガーデン・シティ(田園都市)とは
さて「田園都市」という言葉の源流はイギリスのニュータウンにある。 19世紀のイギリスは、他国に先駆けて工業資本主義が発達し「世界の工場」といわれた。ロンドンやリバプールやマンチェスターなどの主要都市は労働者が集中して住宅不足となり犯罪が多発したうえ、暖房と工場の煤煙で空が灰色に染まった。イギリス政府はこの問題を解決するため、大都市近郊に、健康的な住宅地を建設する方針をとり、これをニュータウンと呼んだのである。そのモデルとなった理論がエベネザー・ハワードの『明日の田園都市』(Garden Cities of To-morrow 1902年刊、内容は1898年別タイトルで刊)という書物であった。庭園のような緑に囲まれた理想郷としての都市であり、大正時代以後の日本の都市計画もこれにならうことになる。 太平洋戦争のあと、日本の大都市は極端な住宅難におちいり、これに応えたのは木造賃貸アパートであった。居室は4畳半か6畳、洗面とトイレは共同、風呂は銭湯へ。新憲法にうたわれた「健康で文化的な生活」とはほど遠いものであった。そこで政府は、イギリスのニュータウンにならって、公団住宅などの公共住宅の建設を推進した。いわゆる団地であり、2DKという標準化された最小限の住宅タイプが量産される。東京の多摩ニュータウンや大阪の千里ニュータウンがその典型である。その根底にハワードの「田園都市」の理念があった。