ポンペイの死者たちが迎えた最期の瞬間、DNA分析が長年の想定を覆す
国際センター
調査中に収集した遺伝子データから、ポンペイは多様な背景の人々で一杯の国際都市だったことが分かる。論文著者らはそう指摘する。 人々の多くは、近い過去に地中海東部からポンペイへ移住した人々の血を引いている。そこにはローマ帝国における広範な移動と文化交流のパターンが表れていると、論文共著者のアリッサ・ミットニック氏は述べた。同氏は独マックス・プランク進化人類学研究所の考古遺伝学部門でグループリーダーを務める他、ハーバード大のライク氏の研究室にも関わっている。 当時のローマ帝国の版図はブリテン島から北アフリカ、中東にまで及んだ。ポンペイが隣接する港は古代世界でも有数の賑(にぎ)わいを誇り、エジプトのアレクサンドリアからの船が日々寄港していた。コーネル大のバレット氏が明らかにした。 同氏によれば、ギリシャ人によるナポリ湾への最初の入植はベスビオ山噴火の800年以上前だという。「従って住民の背景や外見がこうした国際色豊かな歴史を反映しているのは理解できる」(バレット氏) マイアミ大のタック氏は研究を通じ、ローマ時代における家族の定義の性質を強く思い起こすことになったと振り返る。それは直接の近親者のみならず、家庭内にいる全員を含むものだったという。 死者の民族的な構成を調べると、地中海東部に由来する遺伝標識が非常に多く見つかる。これは外国人の奴隷化とその解放が一般的だったローマ時代の慣習を想起させるとタック氏は述べた。 ポンペイにおける遺伝的な多様性について知見を得ることは、科学者がこの都市と住人を理解する手法の再構築につながる。米サンフランシスコ州立大学で古典考古学の教授などを務めるマイケル・アンダーソン氏はそう語る。同氏は新たな研究に関与していない。 発見当初から続いたポンペイにまつわる誤解が決定的に解けるのを目の当たりにするのは素晴らしいとアンダーソン氏。そうした誤解に取って代わる事実は格段に多様で面白く、しかも科学に基づいているとの認識を示した。