ポンペイの死者たちが迎えた最期の瞬間、DNA分析が長年の想定を覆す
古代を見通す窓
市民の最期の瞬間を迎えた悲劇的な場面がそのまま保存されているポンペイの特異な状況により、考古学者たちはローマ帝国時代の人々の暮らしがどのようなものだったのかについて知見を得ることができる。 ナポリから南東へ約22.5キロ、現在のカンパニア州に位置するポンペイは、研究によるとその港湾の存在から地理的に理想の土地だった。ギリシャ人、エトルリア人、サムニウム人がこの地を支配しようとしたが、結局ポンペイはローマの植民地となった。ところがベスビオ山の噴火で街は壊滅。近隣のローマの集落ともども地図上からかき消えた。 火山から吹き出した灰は人や動物をすっぽりと覆い、建物や記念碑、モザイク画、フレスコ画、彫刻その他の芸術品を包み込んだ。ポンペイだけでなく、周辺の他の町も同様の状況だった。噴火後の雨により、遺体は火山灰の中で固まった。硬くなった火山灰は包み込んだありとあらゆる物の外形をそのまま保存したと論文は説く。 何世紀も後にポンペイの発掘が始まったとき、考古学者たちは1000人近い人々の外形を発見。単身もしくは集まった人々の外形が家屋や広場、街路、庭園、さらに市壁のすぐ外でも見つかった。 2015年、ポンペイ考古学公園はフィオレッリが作成した型104体のうち86体を復元する取り組みを開始した。X線とCTスキャンで確認したところ、どの型にも完全な骨格は含まれていなかったものの、骨の破片はそれらの多くの内部に存在していることが分かった。スキャンの結果、考古学者らが数世紀前に型を扱った当初、手を加えていたことも示唆された。考古学者らは型を強化し、体形の様相を変え、骨を除去して金属棒のような安定器を挿入していた。 ポンペイ考古学公園が招いた研究チームは骨の破片や歯を調査。これらの遺物は型に破損が生じていたことによってアクセスが可能になったと、伊フィレンツェ大学の人類学教授・生物学部長、ダビド・カラメッリ氏は説明する。研究チームには考古学公園の新旧の責任者や人類学者も加わった。 公園に所属する科学者と論文著者らは協力してより広範なプロジェクトに取り組み、ローマ帝国時代のポンペイにおける遺伝的多様性の理解を深めることを目指した。 カラメッリ氏は電子メールで、「それはローマ時代の1都市を捉えた2000年前の『遺伝子』写真だ」と述べた。