ゴミが散乱、路上生活者の街から高級ホテルもある観光拠点に 変わりゆく西成・あいりん
■「困窮した20代や50代増加」NPO法人釜ヶ崎支援機構・山田実理事長(73)
昭和45年の大阪万博開催を機に、都市のインフラ整備や建設関係の仕事が増え、全国から日雇い労働者が集まった。その後も活気は続き、1980年代には約3万人もの労働者があいりん地区に出入りしていた。あいりん総合センター周辺の路上では、送迎のバスが早朝から埋め尽くし、「不夜城」とも呼ばれた。
日雇い労働者が犠牲になった交通死亡事故が引き金となった昭和36年の第1次暴動以降、労働条件を巡る手配師への不満などから数年おきに暴動が発生する状況が50年ごろまで続いたが、平成20年を最後に起こっていない。労働環境の改善や、大阪府警が労働者と対立するのではなく、共存する方針に転換したことが影響しているのだろう。
「労働力のプール基地」としての役割を担ってきたあいりん地区だが、仕事の減少とともに労働者の数も減りつつある。「ドヤ」と呼ばれる労働者向けの簡易宿泊所は、2000年代ごろには、訪日外国人客向けのホテルへの転用が見られた。さらに、労働者の高齢化も進んでおり、高齢者や生活保護受給者向けのアパートに変わるなど「福祉の街」の顔も見られる。
一方で、新型コロナウイルス禍などの影響を受け生活に困窮した20代の若年層や50代が増加している。こうした人たちのセーフティーネットとなり「安心して働き、生活できる街」であり続けられるよう、行政も巻き込んだ課題解決が求められている。