「10・19」は思い出としては何にもない 9分間の抗議は道義的な部分が原因・有藤通世さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(36)
プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第36回は有藤通世さん。1988年のパ・リーグ優勝争いが懸かったロッテ―近鉄のダブルヘッダーは試合日から「10・19」と呼ばれ、ファンの記憶に焼き付いています。ロッテ監督だった当事者から、問題の「9分間の抗議」に至った経緯を改めて聞きました。(共同通信=中西利夫) 不安で眠れず夜中の3時に素振り・張本勲さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(34)
▽チームを出ていきたい人を「一緒にやろう」とは引き留めない ロッテ入団2年目は日本シリーズで巨人に負けて、翌71年の春のキャンプをアメリカでやらせてもらった。サンフランシスコ・ジャイアンツのキャンプ地です。日本のキャンプ地とは設備的なものが全然違う。オープン戦もメジャーの人たちと一緒にやらせてもらって、メジャーはいいなあと思った。こういうところで野球をやってみたいな、知りたいなというのが芽生えた。86年に現役を引退した時は、2年ぐらいアメリカに行って野球を見たり、現場に入れるなら入って勉強したりしようかと思っていた。 ところがロッテから、監督をやってもらわないと困ると。ロッテの場合はコーチまでは球団代表クラスで決められるが、監督だけはオーナーと球団社長が決める。やめてくれというわけにはいかない。引き受けたのが僕の野球人生の中で失敗ですね。あの時の自分は監督の器じゃなかった。チーム運営といったところ、全てですね。コーチと会議をして準備し、キャンプとオープン戦を過ごして公式戦にどう入るか。8月ごろになったチームはAクラスにいるのか、いなければどう動くのか。そういう判断というかチームへの配慮とか、僕はまるっきりできていなかった。
集団を使って勝つという作業なんか、やったことないわけですから。現役最後の年も自分がどうしたら打てるか、どうしたら守れるかしか考えてない。コーチだったらこうする、監督だったらこうするという頭は全然なかったです。そんな器用な男じゃない。普通、監督とかコーチで、というのであれば、9月に入ったら何かあるでしょ。それすら何もない。会社から「(現役を)辞めてどうしますか」というのも一切ないわけですから。まあ聞かれても、まだ考えてませんと言ったでしょうけどね。 人事を上がいつ決めたかは分からない。そもそも稲尾和久監督が辞めると思ってなかったから。辞めるような成績(2位、2位、4位)じゃなかった。契約がたぶん3年だったのではないかな。それで契約切れでという始末の付け方では。詳しい話は分からない。選手のこともトレードのことも、僕の耳には一切入ってきてない。落合博満は稲尾さんと近かったから、稲尾さんが辞めるんなら俺も出ていくという話じゃないですかね。そこらの話し合いは会社とできてたのでは。落合との不仲のうわさ? 全然ない。先輩と後輩という仲だけ。もめることがないです。トレードにも一切タッチしていない。落合は僕に後ろめたいところがあるかもしれないですけど、僕はない。こういう性格やから言わないしね。出ていきたい人を「一緒にやろう」と残らせてもね。