明智光秀も憂慮した細川忠興の「果断」な性格
■親族であっても「果断」に処置した細川忠興 細川忠興(ほそかわただおき)は、明智光秀の娘で正室のガラシャこと玉を愛するあまりに嫉妬深く、また短気な性格で敵味方に関係なく酷薄に接したイメージが強い武将だと思います。 確かに、そのような一面もありますが、千利休(せんのりきゅう)に高弟として認められるほどに茶人としての才能を有しており、三斎流(さんさいりゅう)という茶道の流派の祖として崇敬を受けています。 また、御家存続に必要な情報を得るために、時の権力者や実力者に対してきめ細かな対応を心がけ、信用を高めることに成功しています。 忠興のイメージが悪いのは、御家存続において、身内に対しても「果断」な処置を行った事が原因していると思われます。 ■「果断」とは? 「果断(かだん)」とは辞書等によると「思い切って物事を行なうこと、つまり決断力のあること。または、そのさま」をさします。「果断」は良い意味でも悪い意味でも使われます。常に「果断」に行動することが良いという訳ではなく、慎重に行動した方が良い結果になることもあります。 ただ、組織の長として、リーダーシップを求められる局面においては、とても重要となる要素だと言えます。 忠興は身内に関わらず、御家存続のために「果断」に処置をしていきます。 ■細川家の事績 細川家は足利家に連なる室町幕府の名門ですが、忠興の肥後細川家については宇多源氏を出自とする説もあります。 三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男として生まれた藤孝(ふじたか)が細川晴広(はるひろ)の養子となり、室町幕府13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)の元で幕臣となります。義輝が三好三人衆によって暗殺されると、藤孝は足利義昭(よしあき)を擁して三好家と対立します。 その後、織田信長の助力を得て三好家を駆逐し上洛に成功すると、義昭の15代将軍就任を実現しています。 しかし、信長と義昭が対立すると、義昭を見限って織田家の家臣となります。この時、細川家は明智光秀の与力に配され、忠興は光秀の娘である玉を正室に迎え入れ、明智家と親族関係となります。この頃に丹後南半国を領有し、北半国を有する丹後守護家の一色家とも婚姻関係を結んでいます。 1582年に本能寺の変で信長が光秀によって斃(たお)されると、藤孝は明智家への協力を拒み、忠興に家督を譲って豊臣秀吉に従属します。忠興は秀吉の意向に沿う形で親戚でもあった一色家を滅ぼし、丹後一国12万石の国持大名となります。 その後、豊臣政権の主な戦いに父子で参戦し、藤孝は島津家と交渉する外交官としても活躍しています。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは徳川方として戦い、豊前国小倉39万9千石を拝領しています。 1615年の大坂の陣にも出陣し、天王寺口の戦いでは徳川本陣の近くで活躍しています。1632年には、忠興、忠利(ただとし)の二代に渡る忠勤が認められ、肥後国熊本54万石の大身国持大名となります。