新型コロナ対応を先取りした「新国立競技場」 無観客でも客がいるように見えるデザインの真実
負けて勝つ建築家
隈研吾という建築家は、これまでのル・コルビュジエ、丹下健三、安藤忠雄といった、新しい概念の独創的な空間を創出する建築家像とは少し違うタイプである。彼自身はそれを「負ける建築」として、周囲の環境に対して強く主張するのではなく、柔らかく溶け込むような建築であるとしている。しかも日本的な「木の感覚・和の感覚」を、近代的な技術の建築を覆うように使う。 近代世界の建築家には、過去の様式や装飾を捨てて、機能のみにもとづいて設計する、構造材料をそのまま意匠化するという「モダニズムのモラル」のようなものが存在した。しかし隈の作品は、そういった教条を感じさせることなく、日本の風土に育った木造建築の味わいを、現代建築の「たたずまい」として意匠化することに徹している。安藤忠雄が、殺風景といわれた打放しコンクリートの壁を意匠化することに徹したのと、建築論的には逆であるが、その徹底ぶりにおいては共通するのだ。 しかも隈は「負ける」と言った途端に仕事が多くなり、いわば一人勝ち。今、日本の建築界は「隈研吾一強」といっていい。面白いものだ。人間の社会には「負けるが勝ち」ということがよくある。 国家にもあるのではないか。この国の、敗戦からの復興と成長、逆にバブル経済とその崩壊の歴史はそれを示しているように思える。そういえば安部政権の一強も、一度退いてからの復活(負けるが勝ち)で、今はそれが逆目の段階に入ったようだ。戦後日本の歩みと似ている。 今の日本は、対立を深める米中両大国のあいだで、巧妙に負けることを考える必要があるのかもしれない。しかし簡単ではない。負けて勝つには「徹底した挑戦」が前提なのだ。芯の強さが必要なのだ。