廃墟寸前の市場に行列ができる…ポツンと1軒だけ残る「親子の小さな食堂」が地元で50年間愛され続ける理由
■子ども3人を抱えてお店を切り盛り 正文さんの狙いは当たり、現場仕事の客たちがお昼になると食べにくるようになった。人が多すぎて、食材を運ぶ青果店が店内に入れず、2階の窓から運んでもらうほどの忙しさだったという。 「創業した頃、お腹に長男がいたんです。当時は出前もしていて、人を雇える余裕もなかったから、大きなお腹でよく働きましたよ。大晦日になると、年越しそばを常連に届けるために、お父さんはよくここで寝泊まりしてました。2人とも元気いっぱいの時やったからね(笑)」 その後、長女と次男・武さんが生まれ、ますます育児と家業に追われた。幸い、千秋さんの両親のサポートがあり、毎日車で隣町にある自宅から子どもたちを連れてきてくれた。休憩の合間に店でご飯食べさせ、連れて帰ってもらう。店を閉めて帰宅すると、子どもたちはスヤスヤと寝息を立てている、という生活が続いた。 ■客は大型スーパーに流れ、市場は衰退 1980年には各地で大型スーパーマーケットができ始め、品揃えと価格競争に勝てない市場は急速に寂れていった。神野市場も例外ではなく、近所の大型スーパーに客足をとられ、閑古鳥が鳴いた。ほとんどの店舗の経営者が高齢だったことも重なり、次々に閉店。85年頃に市場の店は散髪屋と2軒だけになり、95年頃には千成亭だけになった。 いったいなぜ、正文さんと千秋さんはこの場所で営業を続けたのか。それは「好きで通ってくれるお客さんがいるうちは続けよう」と思ったからだった。創業当時から通う87歳の田代八重子さんは、正文さんと千秋さんのことをこう振り返る。 「ご夫婦でいつもニコニコされてね。私はおしゃべりだから、千秋さんとようさん話しますねん。うちの息子も正文さんになついとったんですわ。忙しい中やろうに、持ち帰りの惣菜を用意してくれたり、店先で正文さんが自転車のタイヤの空気を入れてくれたりね。ほんまお2人とも優しいんです」 ■大黒柱を失った食堂 多忙の中でも、正文さんは早朝に息子たちと船に乗って釣りに行ったり、次男の武さんが所属していた少年野球団のコーチをしたりと、子どもとの時間を作った。千秋さんは懐かしむようにこう言った。 「子どもたちのためというか、多趣味なんですよ。日本犬保存会に登録して四国犬を育てたこともあったし、店の2階の物置きで蘭を育て始めたこともありました。何かに凝ってないとあかん人でしたね」 正文さんが体調を崩したのは、50代半ばの頃だった。 糖尿病と診断され、近所の医療センターに通院を余儀なくされた。だが、正文さんは一日も休むことなく厨房で料理を作り続けた。60歳になると医師から人工透析を勧められるほど腎臓機能が低下。その後、膀胱癌を患い、肺にも転移し、10回もの手術を受けた。 正文さんは入退院を繰り返すようになると、「母さんだけで営業できるように」と、餃子の包み方や簡単な料理を指南したそうだ。 「看護士さんに『千久谷さん、眠りながらフライパンを振る動きをしてるんです』って言われたことがありました(笑)。お父さんは、料理するのが本当に好きやったんです」 2019年の春、努力家で凝り性の、誰からも愛された正文さんは、闘病の末に75歳で他界した。