放送界の先人たち・岡田太郎氏~“昼メロ”の生みの親が明かす誕生秘話~【調査情報デジタル】
大山 それは何年くらいですか。 岡田 昭和33年(1958年)です。レポート出して、バタバタと配属が決まって、そして芸能部のメンバーが決まって、みんなほとんどベテランというか、ラジオドラマをやったり、ラジオで音楽番組やクイズ番組をやっていた、そういう制作の経験者が来て、僕1人だけ異色で、芸能部に入った。 ところがスタジオの工事が非常に遅れていて、確か34年1月だったですが、ようやく完成して普通に使えるようになった。それで事前に試験放送をやらなければいけないのだけれど、その段階では、みんなまだ何もやったことがない。 そこで、いろいろと実験じゃないけれど、5つの班に分けられて、音楽の人は音楽、ドラマの人はドラマのテストをやったのです。要するに電波を出さないで、スタジオの中だけでやってみる。1カメだ、2カメだということもやったことがないわけだから、それをみんなで総見するという演習実験があったわけです。 その時にたまたまの割り当てで、最初にうちの班でドラマをやることになって、誰かやんない?となったわけです。ベテランがおおぜいいるのだけれど、やはり何となく最初にやるのが、ほら。「はいはい、私」とは言わないじゃないですか。 その時は円座になっていて、僕が班長の正面に座っていたら、「君、やれよ」と。「僕はとんでもないです」と言って断ったけれど「それはみんな同じだよ。誰もやったことないのだから。君、やってみろよ」と。そうしたら、みんなが「やれ、やれ」みたいになって。それで何となく。「ええっ?そうですか」みたいな。 ■いきなりドラマディレクターとしてデビュー 岡田 準備期間といっても大したことはないけれど、こちらは全くの素人だから、はっきり言って脚本家も知らないし、俳優も有名な人は映画を見て知っているけれども、そうでない人はあまり、芝居関係は知らないし。そんなことでどうしていいのか分からなかった。まあ、それは周りの人が「おれが口を利いてやるよ」と言ってくれた。 それで結局しようがないから、どうせこれは実験台としてやって、それで最後になってしまうかも知れないけれど、まあいいやと。友達の弟が劇団をやっていたので、電話して「何か脚本を書いてくれるか?」と聞いたら「やりますよ」と。「僕はわりと推理ものが好きだから、推理っぽいものを書いてくれ」と。それで「午後7時0分」という、いまだにそのタイトルは覚えているけれど、そういう30分の推理劇を作ってもらったのです。この1作が僕のその後の、オーバーに言えば、人生のポイントでした。 それまでいろいろな班がいろいろなドラマをやっていて、われわれの班としては初めてだけれど、それまでの実験ドラマは「母と子のフジテレビ」ということで、ホームドラマっぽいものが多かったわけです。しかし、僕は推理劇で、しかもその頃から好きだった、アップで時計がカチカチカチというところを撮ったりして、結構、込み入った話でやった。