放送界の先人たち・岡田太郎氏~“昼メロ”の生みの親が明かす誕生秘話~【調査情報デジタル】
※村上七郎(むらかみ・しちろう<1919~2007>)ニッポン放送を経てフジテレビへ移り初代編成部長。テレビ新広島に出向後、1980年にフジ復帰。制作を分離していた鹿内体制を廃止し、制作現場を中心に「オレたちひょうきん族」「北の国から」などヒット作を生みだして視聴率三冠王に導いた。のち関西テレビ社長。 それでもなかなか「うん」と言わないので、これはだめかなと思っていたんだけれど、ちょうど僕が……。くだらない話でいいですか。 大山 どうぞ、どうぞ。 岡田 各局へみんなが実習へ行って、一応区切りがあって、そこでレポートを書けと。感想文みたいなものですよね。自分の習ったことをレポートにして出せと。原稿用紙10枚以上とか何とか言うのです。 ここで一つ、いかにおれがドラマをやりたいかをアピールしなければ損だと思って、一週間の期限があったけれど、ほとんど寝ないで書いて、厚いレポートを出したんです。本当に自分でもよくあんなにエネルギーがあったなと思うんですけど。 そのレポートが、みんな集まってきて積まれていると目立つわけです。何だこれはと。その当時、かの有名な鹿内さん※が来て、何だこれはと目を付けたらしいのです。 ※鹿内信隆(しなかい・のぶたか<1911~90>)財界の日経連専務理事からニッポン放送社長。文化放送の社長水野成夫とともにフジテレビを設立。労働組合を認めないなど特異な体制で臨んだ経営者。のちにフジサンケイグループ議長。 あまり厚いのでびっくりしてパラパラと見たら、非常に克明に色々書いてある。これは何者だと。それで、呼べということになったわけです。こんなに力を入れて勉強しているやつがいるとは思わなかったみたいなことらしいんだけれども。 それで呼ばれて、その時にどうなんだと言うから、実はこれこれしかじかでドラマをどうしてもやりたいと。そうすると、ドラマの演出なんて、2、3年やったって出来るものじゃない、これは大変な専門分野なんだと。だからやりたいという情熱は分かるけれど、そう若くもないし、当時30歳になるちょっと前でしたけれども、今からというのは無理じゃないかみたいなことを言われたのです。 いや、私は5年かかろうと、6年かかろうと、アシスタントで結構です、とにかく一生懸命勉強しますから、とにかく潜り込ませてくれと一生懸命アピールしたのです。それでみんなが、しょうがないなということになったらしく、何とか、芸能部と当時は言いましたが、そこに配属が正式に決まりました。