放送界の先人たち・岡田太郎氏~“昼メロ”の生みの親が明かす誕生秘話~【調査情報デジタル】
※有坂愛彦(ありさか・よしひこ<1905~86>)音楽評論家 言われた仕事は放送指揮といって、指揮者の「指揮」です。放送指揮室というものがあって、要するに生放送があったり、レコードがあったり、テープがあったりというのを、時間通りにきちんと出す係なんです。言ってみれば送り出しです。そこでどうだと言うから、何でもいいから、とにかくお願いしますと。そこにずっといたのです。 送り出しの専門家で、僕も当時としては若くて多少優秀だったのかなと思うんだけれども、すぐに評価されて、3年もやればかなりベテランになって、そこのチーフか何かをやっていました。 ■フジテレビ開局 岡田 それで、昭和32、33年(1957、58年)、文化放送とニッポン放送が一緒にテレビを始めるので、行きたい人は手を挙げろというお誘いがあって、当時は若かったから、新しいものの方が面白そうだというので、手を挙げたら、それじゃあということで。 それでテレビに行くことになって、まずは実習先としてTBSや日本テレビの運行室みたいな所へ行ったのです。 ところが、当時はほとんど生でしょう。だから、運行と言ったって時間が来ればパッと切り替えるだけで、4スタから今度は3スタという案配で、オンとなればボタンを押すだけ。レコードを回すわけでもないし、テープをかけるくらいです。 だから実習に行って、つまらないと思ったわけです。何回も同じ所で見学しても、まったく毎日変わらないから、ちょっと遊びのつもりで他の所を見に行ったんです。そうしたらドラマが面白くてね。とにかくね、生でドラマをやっていたから。照明の上の… 大山 キャットウォーク※。 ※ テレビスタジオの照明の上に縦横に走っているスタッフ用通路。スタジオを見おろせる。 岡田 キャットウォークの上から見た日には、まあ、この面白さといったらない。当時は30分番組が多くて、てんやわんやの大騒ぎをやっていて。それを見たら、テレビに来たんだったらこれをやらなきゃ損だという気になって、その時からフジに、ドラマをやりたいとアピールし出したんです。 ところが、お前さんは送り出しの人として来てもらったのだから、それは困ると言われて拒否されたんです。いや、そこを何とかと言って、それこそ村上七郎さん※とか、あのへんの人にしつこく、しつこくお願いしたんです。