バブルの象徴、狂乱のディスコ「ジュリアナ東京」跡地はどうなった? かつての倉庫街に押し寄せる巨額の投資マネー
日経平均株価が日本経済の「失われた30年」を経て、バブル経済絶頂期の1989年末に記録した史上最高値を更新。一時、未知の領域だった4万円台を付けた。バブルの高揚感を象徴する存在とされたのが東京・芝浦の倉庫街にあったディスコ「ジュリアナ東京」だ。ワンレンのヘアスタイルに、体のラインを強調したボディコンのファッションを身にまとった女性たちが羽根付きの扇子を振りながら狂喜乱舞した。 【写真特集】それは絶頂と崩落だった 平成経済30年史 次代の教訓
営業期間がわずか3年の短命に終わり、バブルのあだ花ともいわれるジュリアナ東京の跡地を訪れると、バブルの再来かと思うほど不動産に投資マネーが流れ込み、産業も構造変化が進んでいることが見えてきた。(共同通信=越賀希英) ▽無料券配り満員を演出 ジュリアナ東京はJR田町駅から徒歩約10分のビルの1階にあった。現在は博報堂と外資企業のジョイントベンチャーが入居している。ビルの入り口には当時のままの赤い三角形の屋根があり、「昭和」をほうふつとさせる。 芝浦地区は埋め立て地で、物流の拠点として発展してきた。地元に詳しい関係者は「田町駅の海岸側はいわゆるブルーカラーの街。倉庫のほか、立ち食いそばなどの飲食店や商店が軒を連ねていた」と振り返る。倉庫はコンテナ船から小型の船に移し替えた荷物の保管に使われていたという。 ジュリアナ東京があったビルも倉庫だった。1200平方メートルとテニスコート6面分ぐらいの広さがあり、使いやすい長方形。そして天井高が8メートル以上。日商岩井(現双日)の社員だった折口雅博氏はオーナーから有効活用策を相談され、ディスコにぴったりだとひらめいた。「倉庫街で普段行かない場所。非日常感がある」というのが理由だった。折口氏は総合プロデューサーとなってオープンにこぎ着けた。
当時の店内を振り返る映像では、人がひしめき合って踊る様子が印象的だ。だが満員の裏にはある仕掛けがあった。 折口氏は「常に満員にすること」が人を呼び込むヒットの条件だと読んだ。平日でも満員にするために、顧客の主なターゲットを会社員とし、有力企業に招待券を配りまくったという。 当初は来店した千人の客のうち、有料で訪れたのはたったの1割。折口氏は「最初はそんなににぎわっているとは思わず、それほど期待せずに来る。話題のディスコだから来るだけ。そして来てみたら満員でものすごく迫力があって『これはすごい』となるから、次は招待券がなくても来る」と述懐する。 熱気にあふれたダンスホールが刺激を求める客を次々に呼び込み、1991年5月の開店から1年たたずに全員が入場料を支払って来るようになった。平日は女性が4500円、男性は5千円だったという。 バブル経済が終わりを迎えたのは1991年2月ごろとされ、ジュリアナ東京が開店したときには景気は既に下り坂だった。だが世の中はバブルの余韻に浸っていて、経済の低迷がまさか30年も続くとは気付きもしなかった。折口氏が「自分がいかに目立つかということにためらいがなかった」と思い起こすように、女性たちは名物の「お立ち台」で競い合うように踊った。