二十歳のとき、何をしていたか?/宮藤官九郎 大好きな演劇に関わりたくて上京した青年が、革命的なドラマを手掛けるまで。
東京のエンタメ界に片足突っ込んだ二十歳の夏。
池袋に降り立つといまだに心拍数がちょっとだけ高くなるのは、ドラマ『池袋ウエストゲートパーク』(以下、IWGP)のせいだ。不良たちのエクストリームな青春を描いたこのドラマのインパクトは、それほどまでに強い。脚本を手掛けたのは、これが連続ドラマデビュー作の宮藤官九郎さん。当時、29歳だった。 【取材メモ】宮藤さんが作・演出を手掛ける舞台『愛が世界を救います(ただし屁が出ます)』は、2055年の渋谷で出会った、特殊能力を持つ男女の物語。 「演出の堤幸彦さんが書き手を探していたみたいで、プロデューサーの磯山晶さんから僕にも『試しに書いてみない?』って声がかかったんですよ。それで1話だけ書いてみたら、気に入ってもらえたみたいで、全話書くことになったんです。『キレイ』っていうミュージカル公演の真っ最中だったので大変だったのを覚えています。でも、キャストを見ると主演の長瀬智也くん以外は、まだ有名じゃない人も多かったし、『〝これからの人〟を集めて自由に作るんだな』と思って、僕も思いついたことはすべて詰め込みました」 その後の宮藤さんの活躍は言わずもがなだが、『IWGP』以前はどんな道のりを歩んでいたのだろう。時計の針を二十歳の頃まで戻してもらった。 「このまま勉強してて意味あるのかなぁと思ってましたね」 エンターテインメントに携わるべく、宮城から上京して日本大学芸術学部に入学したものの、そんなモヤモヤが拭えなかった二十歳の夏、宮藤さんは大学の掲示板に一枚の張り紙を発見する。当時、WAHAHA本舗に所属していた村松利史さんがプロデュースする公演『神のようにだまして』のスタッフを募集しているという。宮藤さんが迷わず応募したのは言うまでもない。 「僕は小道具を作る係で、作業をWAHAHA本舗の稽古場でやっていたんですけど、あるとき、夜中に梅垣義明さんが急に現れて、『ちょっとネタ見てくれないかな』って言うんですよ。中島みゆきの『化粧』を流しながら、生卵が入ったショットグラスを100個くらいひたすら飲み続けるというやつだったんですけど、終わって『どうかな?』って(笑)。『面白いですね』と答えたのを、今でも強烈に覚えていますね。『やっと東京のエンターテインメントに片足突っ込んだんだな』って(笑)」 そんな感慨に浸りながら、稽古場の外で宮藤さんが小道具の準備をしていたあるとき、たばこを吸いに来た男性が急に問いかけてきた。「君はさ、何がしたいの?」と。同舞台の脚本を手掛け、出演もしていた松尾スズキさんだ。つまり、のちに宮藤さんが所属することになる劇団「大人計画」の主宰者なわけだが、そのファーストコンタクトはとても残念なものだったらしい。 「そのとき僕は、マネキンにラッカーを吹きかけていたんですよ。何に使うのかも知らないまま(笑)。そんなときに聞かれたもんだから、『別に……』って答えちゃったんです。松尾さんはそれに対して『ふーん、そっか』と言われて、最初の会話は終了。『やっちゃったかな』とは思いましたけど、たしかにそのときは何をやりたいか定まってなかったんですよ。作家になりたいとも、役者になりたいとも思ってなくて、ただ、演劇に関わりたいだけだったので。バンドもやっていたし、いろいろお試し中だったから、そう答えちゃったんでしょうね」