二十歳のとき、何をしていたか?/宮藤官九郎 大好きな演劇に関わりたくて上京した青年が、革命的なドラマを手掛けるまで。
あらゆる退路を絶ち、〝大人になる計画〟を実行。
という次第で、千載一遇の〝売り込みチャンス〟を逃した宮藤さんだったが、演劇との関係まで途切れたわけではない。この公演の後、舞台の裏方の仕事をいくつも紹介してもらった。しかし、イッセー尾形さんの一人芝居や関根勤さんが座長を務めるカンコンキンシアターなど、ありとあらゆる舞台を袖で目の当たりにするうちに、宮藤さんは思う。やっぱり大人計画なんじゃないか、と。折しも、大人計画の公演を観に行くと、チラシの裏に「文芸部募集」の文字がある。「これだ!」と確信し、書いてある番号に電話をかけると……。 「松尾さんが出たんですよ。『別に……』って言っちゃったし気まずいなぁと思いながら、覚えてないだろと思って『文芸部って何をするんですか?』と聞くと、『台本を書いたり演出したりすんだよ。入りたいなら、何か書いて持ってきて』と言われて。それで初めて戯曲を書いたんです。なんで大人計画だったかというと、当時はまだちゃんとした役者がいなかったんですよ。温水洋一さん以外は、『この人たちどうやって生活しているんだろうな?』って人ばっかりで、それがよかったんです(笑)」 ところで、宮藤さんがこの電話をかけたのは、幕張で準備が進んでいた、とある展示会の会場だったという。 「その頃は、舞台の裏方以外にも、モーターショーやボートショーの設営のバイトもやっていたんですよ。その給料がすごくよくて、割と貯金ができちゃって。これじゃマズい、このままじゃこっちの世界に行っちゃうなと思って、幕張の展示会場から電話をしたんです」 晴れて宮藤さんが大人計画の文芸部に入ったのは、1992年。松尾さんが大人計画をとにかく活性化させようとさまざまな試みにチャレンジしていた時期と重なったため、とにかく忙しかった。 「家にはほぼ帰れず、松尾さんが倉庫にしていた下北沢のアパートで寝泊まりしていましたね。常に3、4本の公演を抱えていました。それで大学に行けなくなっちゃったんです。往生際は悪いから、4年までは籍を置いていたんですけど、そろそろ先のことを考えなきゃマズいと思って、親に相談してまず1年間休学させてもらったんです。そしたら、松尾さんに『劇団員になる?』って言われちゃって。でも、今から大学に行っても駄目だなと思ったし、演劇でもなんとかなるんじゃないかなと思えたんで、大学を辞めました。24歳のときですね」 退路を断った宮藤さんは、さらに大胆な行動を起こす。かねてお付き合いしていた女性と結婚をしたのだ。そのことについて宮藤さんは「すごく焦ってたんでしょうね。地に足をつけよう、社会人っぽくしようと必死だった」と振り返る。大人計画への入団と同時に、宮藤さんはまさに〝大人になるための計画〟を実行しまくっていたというわけだ。劇団の外でもバラエティ番組や深夜ドラマに作家として携わり、実際に「なんとかなった」と思えるようになり始めたのが、『IWGP』の脚本家に抜擢された20代最後の年だった。 「振り返ってみると、20代って何かを辞めたり諦めたりする発想が、まったくなかったですね。全部やってやろうと思っていた。何かを書いてみたり、8㎜カメラで映画を作ってみたり、バンドを組んでみたり……。そうやって20代で始めたことが、30代で形になっていった感じです。いっぱい失敗もしたけど、『あれは失敗だったな』って思うことで、次に行けていましたし。だから、20代でやれることは、全部やったかな。あ、大学卒業だけは別ですけどね(笑)」