【光る君へ】「まひろ」にフラれたからではない… 道長が出家した本当の理由
まひろが去ると聞いて出家した道長
娘の賢子(南沙良)が宮仕えをするのと引き換えに、自分は宮廷を退いて旅に出る決意をしたまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)。しかし、これにショックを受けた藤原道長(柄本佑)は、慌てた表情でまひろのもとを訪れ、「なにがあったのだ?」と尋ねた。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第45回「はばたき」の一場面である。 【画像】大河の印象が一変? “妍子(きよこ)”の「JK姿」 ほか
道長はまひろに「行かないでくれ!」と懇願した。まひろは「私の役目は終わったと申しました」「これ以上、手に入らぬお方のそばにいる意味は、なんなのでございましょう?」などと返答をし、こう告げた。「私は去りますが、賢子がおります。賢子はあなた様の子でございます。賢子をよろしくお願いいたします」。 道長はまひろの手を握り、真剣なまなざしで「お前とは、もう、会えぬのか?」と尋ねたが、まひろの返事は「会えたとしても、これで終わりでございます」というものだった。 こうしてフラれた最高権力者は、胸の苦しみを訴えたのちに、正室の倫子(黒木華)を呼んで「出家いたす」と告げた。これに倫子は「藤式部(註・紫式部の宮廷内での呼び名)がいなくなったからですの?」と尋ねたが、道長の意思は固く、剃髪し、出家してしまった。 この流れを見ていれば、視聴者は道長が出家した原因は、紫式部が宮仕えをやめたからだと思うのではないだろうか。
じつは病弱だった藤原道長
しかし、いうまでもないが、道長と紫式部が恋愛関係にあったというのはフィクションである。道長と紫式部のあいだに男女の関係があった可能性は、残されている歌などからも低いとはいえないが、少年少女のころから思い合っていたというのは『光る君へ』の創作であって、ましてや、賢子が道長の子であったという可能性は、それを完全に否定する材料こそないものの、きわめて低いといわざるをえない。 したがって、道長が出家した理由は、紫式部とはまったく関係ないところにあったと考えるほかない。 その最大の理由は体調不良だった。「光る君へ」では、道長は基本的に健康体であるように描かれてきたが、現実にはかなり病弱だった。道長の健康に関する最初の記録は、藤原実資(秋山竜次)の日記『小右記』にある。永祚元年(989)7月22日、まだ権中納言だった24歳の道長が、病気を理由に朝廷の業務を早退したと記されている。 そうした記録はその後、9年ほど途絶えるが、長徳3年(997)3月、藤原行成(渡辺大知)の日記『権記』には、道長が夜中に突然発病した旨が記されている。その後は、困難な状況を迎えるごとに体調を崩している。 同じ長徳3年7月には「瘧病」、すなわちマラリアにかかったようだ。甥の伊周(三浦翔平)が花山院(本郷奏多)を矢で射かけるなどして失脚したあとで、伊周が復帰しても上級の公卿になれないようにするための体制づくりなどで激務が続き、免疫力が弱っていたのかもしれない。