【光る君へ】「まひろ」にフラれたからではない… 道長が出家した本当の理由
「望月」は見えていなかったかもしれない
翌長徳4年(998)から道長を悩ませたのは腰病だった。『権記』によれば3月3日、一条天皇(塩野瑛久)に命ぜられ、天皇の秘書官長の蔵人頭だった行成が見舞いに行くと、道長は「出家の本懐を遂げたい」といい、一条天皇に伝えるよう指示した。一条に却下されたものの、すでにこのときから、道長は「出家」を口にしていたのである。 『光る君へ』にも、このころ道長が引退を申し出る場面があったが、天皇に却下されてもあきらめられなかった道長は、3回も出家を願い出ていた。 その後も、道長は病に襲われ続ける。長保元年(999)11月、長女の彰子(見上愛)を一条天皇に入内させた直後には「霍乱」、すなわち急性胃腸炎で倒れ、翌長保2年(1000)4月にも発病している。そのうえ道長は生活習慣病でもある「飲水病」、すなわち糖尿病の持病もかかえていたのである。 だから、それから18年を経た寛仁2年(1018)10月16日、道長が「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば」と詠んだときには、身体にかなりのガタが来ていたようだ。 たとえば目。道長がこの歌を詠んだ宴の翌日、実資が『小右記』に記したところでは、道長は実資に「近くば則ち、汝の顔も殊に見えず(近くに寄ると、あなたの顔も見分けられない)」「昏き時、白昼に因らず、ただ殊に見えざるなり(暗いときか白昼かにかかわらず、とにかく見分けられないのだ)」と語ったという。 白内障だったと考えられている。これでは、望月もしっかりとは見えていなかった可能性が高そうだ。
のたうち回るほどの胸の発作
おそらく白内障は、持病の飲水病の影響で悪化したのだろう。すでに長和5年(1016)ごろから、道長は顔色が悪く、のどの渇きを頻繁に訴えていた。『小右記』によれば、道長がこの年の5月10日、法華三十講を主催した際には、招かれた僧が、道長の死期は遠くないと実資に漏らしたという。ドラマで描写されているよりもずっと、道長はやつれ、具合が悪そうに見えたのだろう。 そして、「望月」の歌を詠んだ年、寛仁2年(1018)の春には、胸の発作にも襲われている。『小右記』には「叫び給ふ声甚だ高く、邪気に似たり(叫ばれる声が非常に大きく、邪気が乗り移ったようだ)」と書かれている。『光る君へ』第45回でも、道長が胸を苦しそうにする場面が描かれたが、そんな生やさしい発作ではなかったようだ。しかも、同様の発作が何度も続いたという。 寛仁3年(1019)正月10日には、胸の発作でのたうち回るほどで、前後不覚に陥っている。その苦しみが治まらないまま、3月には霍乱(急性胃腸炎)のような症状にもなり、さらに目も見えない。道長がついに出家したのは3月21日のことだが、さすがに、これほど身体がボロボロでは、出家を決断してもなんの不思議もない。周囲も「紫式部が云々」などと疑う余地はなかっただろう。