【光る君へ】「まひろ」にフラれたからではない… 道長が出家した本当の理由
娘にも逆らえない立場からの脱出
ところで、出家後の道長は、それ以前にくらべると、かなり元気になったようだ。そして7月17日には、私邸の土御門殿の東に、丈六の阿弥陀像と四天王像を造立することを発願し、以後、大規模な造営が行われ、のちの法成寺につながる。それにあたっては、宗門を超えて仏教界に君臨し、諸国の受領たちに造営を負担させている。出家後も道長が圧倒的な権威と、それを背景にした影響力を維持していた証である。 こうして自由に権力を行使できる立場を得ることも、道長が出家した目的のひとつだったと考えられる。というのも、出家以前の道長は所詮、天皇家にとって臣下にすぎなかったからである。 当時の皇族は事実上、後一条天皇、東宮の敦良親王、太皇太后の彰子、皇太后の妍子、中宮の威子の5人だった。彼らは道長の2人の孫と3人の娘で占められ、その点で道長の地位には揺るぎないものがあった。とはいえ、臣下としては最高の従一位の道長に対し、天皇と東宮はもちろん、妃たちも位階をもたない。つまり、道長にとっては絶対に超えられない存在だった。 とりわけ、いまや天皇家の圧倒的な家長となった彰子には、道長はとうてい逆らえない。しかし、出家すれば話は違う。 実際、道長は出家して「大殿」となり、臣下の立場を離れて天皇家と向き合えるようになった。出家に際して、そういう立場を得たいという思いが、道長にあったと考えるのが自然だろう。こうしてストレスから解放されたから、出家と同時に、病も一定程度の快方に向かったのではないだろうか。 香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。 デイリー新潮編集部
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