唯一無二のマセラティ|スターリング・モスが駆った450Sコスティン・ザガート【前編】
マセラティ450Sコスティン・ザガートはスターリング・モスによって1957年のル・マン24時間レースに出場したが、そのワンオフのレーシングカーはレース後顧みられることなく打ち捨てられた。マーク・ゾナリーがその悲運のヒストリーを振り返る。 【画像】マセラティ450Sコスティン・ザガートがル・マン24時間レースに挑む(写真4点) ーーーーー マセラティ450Sは綺羅星のような1950年代のレーシングカーの中でも特別な存在である。以前『Octane』でもリポートしたが、扱いが容易ではないレーシングカーであり、何よりプロトタイプを含めて製作されたのはわずか11台のみ。ルール変更によって短命に終わった。そのうちの何台かはレースで好成績を残したが、ここで紹介する1台はユニークさで記憶されている。唯一のベルリネッタにして、不幸な巡り合わせで知られる「450Sコスティン・ザガート」である。 ●スターリング・モスのアイディア 1957年のはじめに、マセラティにル・マン・レーサーの計画を提案したのはスターリング・モスその人だったという。 「飛び抜けた最高速を達成できる、優れた空力特性を持つクーペならばル・マン24時間レースのための究極のマシンになるはず」、とのアイディアだった。モスはオルシ・ファミリー(当時マセラティのオーナーだった)とチーフ・エンジニアのジュリオ・アルフィエーリの信頼が厚く、彼のアイディアは直ちに実行に移されることになった。 モスはまたエアロダイナミクスの第一人者としてフランク・コスティン(弟マイクはコスワース創設者のひとり)という若き英国人を推薦。当時36歳だった彼がクーペ・ボディのデザイナーとして雇われることになった。家長のアドルフォ・オルシとその息子のオメールは取り立ててル・マン24時間レースに興味を抱いてはいなかったが、アルフィエーリが熱心に推進したのである。 コスティンは当時、航空機メーカーのデハビランドの社員だったが、当時モスが何度も好成績を収めたヴァンウォールF1のデザイナーとしても賞賛を集めていた。さらに彼はロータス11などのボディワークを手掛けていた。自動車史家のカール・ルドヴィクセンによれば、コスティンに与えられた時間はわずか5週間だったという。それでも彼は自らの知識と経験を総動員して、ミュルサンヌでの超高速を実現できるエアロダイナミクスの傑作を生み出そうとした。ところが、計画は望んだようには運ばなかった。 当時のマセラティがレーシングカー・ボディの製作で頼りにしていたのは、カロッツェリア・メダルド・ファントゥッツィだった。しかし彼らは他の仕事で忙殺されており、短期間でその仕事を完成させることは無理と分かり、代わりにザガートに委託されることになった。ボディは新しいシャシー(No.4506)に架装された。当時のコスティンのインタビューによれば、彼はダイニングルームでアイディアを設計図にまとめ、空港に急いでスケッチをモスのマネジャーであるケン・グレゴリーに札束と引き換えに渡し、グレゴリーはそのまま飛行機に乗ってザガートに飛んだという。 しかしながら、このプロジェクトは始めから躓いた。当時エンジニアを務め、後にマセラティのヒストリアンとなったエル・マンノ・コッツァはこう語っている。「様々な理由が積み重なって、計画すべてがパロディのようになってしまった。まずコスティンの設計図が届くのが遅かった」 実際にボディ製作のためにザガートに与えられた時間は非常に短く、別のヒストリアンのジョエル・フィンによれば、たったの2週間だったという。当然ながらコスティンのデザインの細部は重要視されず、互いの意思疎通も十分ではなかった。結局、ザガートでの作業を心配したコスティン自らが駆けつけたという。1977年の『オートモビル・クォータリー』のカール・ルドヴィクセンによるインタビュー記事の中で、ザガートでの一週間をこう振り返っている。「突然現れて大騒ぎする英国人。あの当時の私はまったく心の狭い嫌な奴だったと思う」と。 この時、現場に通訳がいれば話はまったく違ったはずだ。「イタリア人たちはコスティンの素晴らしい空力のアイディアをまったく理解していなかった」と言うのは簡単だが、当時はほとんどの人間がエアロダイナミクスについて知らなかったということを考慮しなければならない。おそらくファントゥッツィならば基本的な知識を持っていたはずだが、ザガートはその方面には熟達しておらず、まるで魔法か呪いのようなものと考えたのかもしれない。 『モータースポーツ』誌の1984年9月のマイク・ローレンスによるインタビューでコスティンはこう語っている。「マセラティのチーフ・メカニックだったベルトッキは、ベルリネッタというアイディアに完全には納得していなかった。彼の意見は重視されており、その結果、ボディ製作を担当したザガートでは、入念に考えられた空力デザインの重要性に十分な注意が払われなかった」 しかしながらコッツァは彼の言葉に反論する。「私が見た限り、ベルトッキはワークショップでは発言力があったが、ザガートのようなサプライヤーにまで影響を及ぼしたとは思えない。彼はアルフィエーリに反対意見を述べることはあったが、それは車の形についてではない。ベルトッキはモデナでの組み立てとテストの責任者であって、ミラノにあるザガートに介入するような権限もなかった。ボディはコスティンの指示を反映させることなく作られた」 マセラティもまた大急ぎで車を組み立てなければならなかった。最終的に形になったのはル・マンのプラクティスが始まるわずか2日前のことで、事前のテストも、モデナ・アウトドローモでのシェイクダウンすら行う時間がなかった。急いで塗装を施し、4501にシャシーナンバーを打ち換えてル・マンに向けて出発したという。ナンバーを打ち換えるのは当時としては珍しいことではなく、それは国境での通関手続きを簡単にするためだった。本来のNo.4501は以前にル・マンに出場したことがあり、その後テストでクラッシュして解体された車だった。 ●苦い結果に終わったル・マン 何とか間に合ったクーペだったが、コスティンのオリジナルデザインのうち、既に変更を余儀なくされたものもあった。航空機のようなキャノピー・ドアは、転倒した場合にドライバーが閉じ込められる恐れがあるとして、主催者のACOが認めなかったからだ。それでも、大慌てで製作されたマセラティ・ベルリネッタは、現地でたちまちセンセーションを巻き起こした。パドックでは注目の的となって各新聞の一面を飾り、“ル・モンストル”(モンスター)というニックネームを与えられたという。 コスティンはレースのスタート直前にル・マンに到着したが、パドックでは早速、コリン・チャップマンに「“水切りボール”の調子はどうだい?」とからかわれたという。マセラティはベンチレーションのためにボディにいくつもの穴を開けていたのである。別のインタビューでのコスティンの発言はこうだ。「ル・マンに着いて、彼らが何をしたかを目にするや、私はビールを飲みに行ってしまった」正直に言えば、これは彼の素晴らしいキャリアのうちのほんの一幕に過ぎない。後にジェム・マーシュとともにマーコスを創設する彼は、こうしてプロジェクトを放り投げてしまったのである。 スターリング・モスとハリー・シェルが乗るマセラティ450Sベルリネッタはカーナンバー1を与えられ、いっぽう標準仕様の450S(No.4503)はジャン・ベーラとアンドレ・シモンが担当、さらにファン・マヌエル・ファンジオがリザーブドライバーとしてピットに控えていた。これは間違いなくライバルたちにプレッシャーをかけるためだった。 最初のプラクティスで高速走行を初めて試すやいなや、まずワイパーが脱落した。ザガートが航空機用ワイパーを使うべきというコスティンの忠告を無視したのだった。大観衆と報道陣はコスティン・ザガートをもてはやしたが、モスとシェルは気に入らなかった。ベンチレーションが十分ではないコクピットが恐ろしく暑かったからである。 続いてスムーズな空気の流れを意図したアンダーフロア・エプロンが役に立たないことが判明し、またキャブレターに高圧のフレッシュエアを送るべきエアボックスも正しく働いていないことが分かった。さらに悪いことに、オイルタンクのための孔から、熱いエンジンルーム内の空気がキャブレターに流れていたために、7000rpmまで回るはずが6200rpmまでしか回らなかった。急ごしらえのヴェントはコクピット内を冷やすにはほとんど効果がなかったいっぽうで、エアロダイナミクスには悪影響を及ぼし、ミュルサンヌでのトップスピードは165mph(≒265km/h)に留まった。ベーラ/シモン組の450Sスパイダーより5mphも遅かったのである。 視界が良くないマシンに乗ってポールポジションからスタートしたモスは、たちまち汗だくになってしまったという。それでも序盤はホーソーンが乗るワークス・フェラーリと2位の座を争っていたが、ホーソーンの335Sは10周のうちに30秒ほどのリードを築き、スタートから1時間後にはさらにその差は広がり、ベーラのスパイダーにも抜かれてしまった。同じ頃、モスは激しい振動に見舞われた上に、マシンは煙を吐き出していた。シェルと交代するべくピットインしたモスだったが、外れたオイルパイプを修理して再びコースに戻った。しかし、間もなく450Sの持病とも言えるリアアクスル・ジョイントが壊れ(マセラティは適切な解決策を見いだせずにいた)、ベルリネッタは結局32周目にリタイア、またスパイダーも同じトラブルに見舞われ、その4周前にレースを諦めていた。 ・・・【後編】に続く 編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Marc Sonnery Photography:Nick Lish
Octane Japan 編集部