映画「八犬伝」内野聖陽さんインタビュー 馬琴に寄り添う北斎、「実」が説得力を持ってこその「虚」
限りなく本物に近い「ギリギリ感」
――北斎と馬琴の出演シーンにない「虚」のパートはどのように意識していましたか? 馬琴や北斎をはじめ、物作りする人たちや芸術家というのは、実は普段はとても地味だと思うんですよ。作家はひたすら書く、舞踏家だったらひたすら稽古する、といったように「実」の世界は非常に地味な世界なんだろうなと思っていました。翻って「虚」の世界は最先端のVFX技術が用いられ、豪華絢爛、大スペクタクルで、どちらかと言ったら脳内の世界。なので、どんどん世界が広がっていくし、色彩的にも輝度が高い。僕も若かったら「虚」にも出たかったなという気持ちはありつつも(笑)、「実」の世界がきちんと説得力を持っていないと「虚」が振り切れないという意識はありました。 例えば、「虚」のパートで、天守閣の上で戦ってそのまま川に落ちて救われるといった流れは、もう漫画じゃないですか。僕はそういうのも大好きなんです。それに、きっと北斎自身も好きだったから「もっとやれ」と思って描いたんでしょうけど、「虚」の世界は、地味で地面に這って生きている人間が到達できないファンタジックな世界を示してくれるものなので、キラキラ輝く、夢のような世界だと思っていました。 ――何が「虚」で何が「実」か、という論じ合いもありましたが、本作を通して、「虚」と「実」についてどのようなことを考えましたか? 僕の中であの奈落でのやり取りは、馬琴が勧善懲悪的なものを作っている一方で、南北はおぞましさやいやらしさなども含めて「虚」なんだよ、ということのバトルだなと思って見ていました。自分にとっては、演技をして生み出している世界は「虚」の世界。これまでいろいろな虚の世界をやってきてはいますが、人の良きこと、正義を信じるエンターテインメントと、「四谷怪談」のように人間が普段心の中にふたをしてしまっている醜悪な部分まで全部見せてしまうというのも、ひとつのエンターテイメントだよねという思いがあるんです。 それを簡単に言ってしまうと「ロマン派と自然派」みたいな分け方かもしれないけど、僕はこれも両方好きなんですよ。同じエンターテイメントでも全然毛色の違うものを作る人間が売れっ子として目の前に出現したら、馬琴にとってはひどくショックだったと思うし、きっと南北にとってもショックだったろうと思うんです。「虚実皮膜」という言葉もありますが、僕は作り物だけど、限りなく本物に近いとか。本物だけど「これって現実なの?」みたいなギリギリ感は好きですねぇ。