外遊中に歴史的大暴落、東株退社後に巻き込まれた帝人事件 河合良成(下)
3年にわたる冤罪との闘い、獄中に200日間
この事件は昭和8(1933)年5月、河合(帝人監査役)が高木復享(台銀理事)に対し、帝人株買い受けの申し込みをしたところが発端で、武藤山治の「時事新報」が翌9年1月から「番町会を暴く」を連載し始め、同年4月から大物が次々と検挙された。最終的に無罪が確定するのが昭和12(1937)年12月という長期にわたる冤罪との闘争であった。河合はその中心にいた。後に『帝人事件』を著し、デッチ上げ事件との戦いの跡を振り返るが、獄窓に200日間つながれていた時の心境を歌に託している。 「子等は今夕餉(ゆうげ)すらむか 吾はここに部屋の片すみ箱膳の前 「春や行き夏や来るか 小さき窓を背伸びして見る夕映えの色」 そして出獄の日の一句。「秋晴れや僧房出づる髯男」 時に50歳、ここから河合の人生は後場に入るが、実り多い収穫の季節となる。人生の前場で相場と格闘した報酬といえなくもない。=敬称略