外遊中に歴史的大暴落、東株退社後に巻き込まれた帝人事件 河合良成(下)
戦後恐慌冷めやらぬ中で起きた関東大震災
結局、このパニックで東株が立会を停止した日数は38日間(ちなみに大阪株式取引所は32日間)に及んだ。バブル景気で取り組みが大きく膨らんでいたので、その跡始末に手間取った。河合が東株常務としての5年半は余りいいことがなかった。中でも大正12(1923)年9月1日の関東大震災は衝撃的だった。 「急いで取引所へ戻り、地下室へ蔵ってある莫大な証拠金(有価証券)の始末に取りかかった。そのため整理の所員がかわるがわる地下室へ入ると、直きに大きな余震がくるので、声を上げてまた地上へ飛び出してくるというようなことを繰り返しながら、地下室の火災に対する防備を固めた」 この時点ではまだ火災は発生していない。河合たち東株の役職員が帰宅した後、日本橋は火の海となり、焼き尽くされていく。翌朝、河合たちが東株にたどり着いてみると、取引所は焼失していたが、金庫だけは大丈夫であった。兜町から日本橋一帯は焼野原で、焼け残りの金庫があっち、こっちに立っている姿はあたかも墓石のようだったという。地震の時、郷理事長は夏休みで箱根・宮の下の別荘に滞在していて、家屋が倒壊してその下敷きになるが、九死に一生を得た。9月4日、河合は郷を箱根離宮に見舞う。 「郷さんは倒壊家屋の下敷きになりながら、しみじみ人生の無常を感じたらしく、この時以来、郷さんの性格が一変した。それまでは、非常に厳しい性格の人で、癇癪(かんしゃく)の強い、セッカチな人であったが、それからは物の見方が広くなり、大所高所からの判断をするようになり、結局財界の大御所となった」(『明治の一青年像』)
帝人事件で逮捕……東株を辞めた後も株と関わり
大震災体験で丸味を帯びてきた郷誠之助だったが、仲買人たちとの摩擦は激しさを増していった。取引所改革をめぐる路線の対立に嫌気した郷は理事長職を岡崎国臣に譲る。大正13(1924)年11月のことだ。そして河合も郷に殉じて退任する。 農商務省時代にも違った角度から市場(相場)と深く関わってきた河合だが、相場というものの不可思議さはますます深まっていった。河合は回想録の中で書いている。 「私は大学でも永く『取引所論』の講義もやり、株については専門家中の専門家であるが、株式の相場だけはわからない。今日でも株のことを聞かれると、『ゴッド・ノーズ』と答える。それは『相場は神様でなくては分からない。神様にお聞きください』という意味である」 河合と株との関わりはこの後も続く。東株を辞めた後、川崎財閥の日華生命(後の第百生命)専務となるが、帝人事件に連座し、逮捕される。この昭和史上最大の疑獄事件が株の売り買いに絡むものだったからだ。 帝人事件とは、昭和9(1934)年に起きた帝人の株式売買をめぐる疑獄事件。昭和2(1927)年の金融恐慌で鈴木商店は倒産し、子会社である帝人の株式22万株は担保として台湾銀行のものとなった。鈴木商店の大番頭・金子直吉らは帝人株の買い取りを狙い、郷誠之助率いる番町会に依頼する。11万株の買い取りに成功した後、株価が急騰して巨利を得る。この取り引きをめぐり、政財界首脳が相次いで検挙され、斉藤実(まこと)内閣は総辞職に追い込まれる。265五回に及ぶ公判の結果、正常な取り引きと判断され、全員無罪となる。