独りって、そりゃ寂しいですよ――「何をやらせても、人よりできなかった」パティシエ・鎧塚俊彦の実像
何をやらせても、人よりできなかった
テレビで見る通り、穏やかで実直。日本を代表するトップパティシエは、驕らず、謙虚だ。 「驕らないんじゃなくて、驕れない。最初から、才能がないんですよ。何をやらせても、人よりできなかった。いや、今でもそうですよ。でも、ここまで来られたのは、いろんな人が僕のことを立ててくださったから。ネットニュースなんかでは、いい人っぽく書かれることが多いんですけど、なんでかなあ。女房のことも、何か『永遠の愛』とか言われて。僕、自分で言ってないですからね。女房以外の人と絶対付き合わない、なんて。きっと彼女ができたら、世間から叩かれるんだろうなあ(笑)」
中卒・高卒がほとんどの中、ハタチ過ぎからの料理人デビュー
とにかく働き者だ。家具職人の寡黙な父の背中を見て育ち、中学生から新聞配達を始めた。高校からのアルバイト先は、ガソリンスタンド。働きぶりの良さから頼りにされて、高校生ながら臨時所長のような立場を任されることもあった。 「学校はアルバイト禁止だから、あんまり大きい声で言えないんですが、変な高校生でしたよね(笑)。今思うと、なんであんなにがむしゃらに働いたのか。実家は裕福ではなかったですけど、食べるに困るほど貧しいわけではなかったのに」 高校を卒業してからも4年ほど働き続けた。やがて、自分の人生はこのままでいいのかと自問するようになる。そこで思い出したのが、子どもの頃抱いていた夢だ。 「料理人になりたかったんです。テレビで“フランス料理のフルコース”があることを知って、食べてみたいなあって。でも当時は、お金持ちの人しか食べられないと思っていて。うちの父親は外食が嫌いだったこともあって、夢のまた夢でした。だったら作る方に回るしかないな、と」 一念発起して、製菓専門学校へ。パティシエという言葉も一般的ではない時代だった。
「お菓子を選んだのは、単純に好きだったから。専門学校では、一時、和菓子も面白いなあ、と思ってましたね」 23歳で、守口プリンスホテル(現ホテルアゴーラ大阪守口)に入社。 当時は中卒・高卒で料理の世界に飛び込むのが一般的だった。「遅れて」料理人になった鎧塚は、その年齢差にコンプレックスを抱いていたという。 「最初のホテルから神戸ベイシェラトンに移ったときが初めてのパティシエとしての転職でしたが、そこがターニングポイント。まだ自信も勇気もなくて、当時のシェフに相談したんです。そしたらシェフが、『行ったら苦労するやろな。でも、今おまえ、楽してるか? 今も苦労してるよな。だったら報われる苦労をした方がいいんじゃないか?』と。下働きの苦労を続けるよりも、年齢に見合ったセクションシェフとしてやってみたらと背中を押してくれた。行ってみれば、なんとかなるもので、その位置に見合った技術と人がついてくる。それを覚えてからは、どこへ行っても、まあなんとかなるだろうと思えるようになりました」